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奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20201120(x2)

読書会 JTT-15章(1) 内なる壮大さ/特別な関係

11/6。

午前中だけ、ちょっと短め読書会@郊外カフェをやりました。気がついたらJTT本も15章を読み終えて、道半ばまできたな〜って感じです。いままで要約だけで力尽きてましたが、15章では少しテーマが見えてきた感じがするので、自分なりに大きくまとめてみたいと思います。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 15 — The Holy Instant

内なる壮大さの象徴

前回の14章は「間接的な学び」という話が何度か出てきたんですけど(14章 )。その関連で、私達がこの世で具体的に体験するものが何を象徴しているのか、という分かりやすい話がこちら:

No.14829/p203 Everything here is littleness, not just the obvious ego manifestations of pettiness, greed, and hate, but also the world’s most awe-inspiring structures and creative accomplishments…

これは、この世界にあるすべてが卑小さの表現であるという話です。例えば狭量さ、貪欲さ、憎悪といったイヤ〜なものはあからさまに自我の表現なので卑小さに属すると分かりますが、「世界で最も荘厳な建造物や芸術的な傑作」でさえも卑小さに含まれる、という所はなかなか実感しづらいポイントかなと思ったり。

例えば偉大なアーティストの舞台とか、雄大な自然風景を前にしたりとかで言葉を失うような感動的な体験をすることってあると思うんですが、素晴らしい芸術作品、美しい自然の風景といったものも、それ自体は「無」なのだそうです。でも博士はそれを否定的なニュアンスで言ってるわけではありません。
つまり、無にすぎない形態そのものに壮大さがあるわけではなくて、その形態が「私達の内なる壮大さを象徴するとき」に感動として体験される、という事なんだそうです。

本当の偉大さや美といったものは、対象物にではなく私達の心のほうに宿っていて、この世においても象徴(形態)を通してそれに触れることが出来る、というのは明るい側面だな〜と思いました。この仕組みを心に留めておけば、たまに美しく感動的な体験があったときにも素直に感謝できそうヽ(*’∀’*)/

特別な関係について

あと、15章の前半は「特別な関係」についての説明が分かりやすかったです。このへんとか:

No.14910/p206 Almost anyone would say it is impossible not to value certain members of the Sonship more than others, which of course is true as long as we believe we are bodies…

これは「一なる子(Sonship)の特定メンバーだけを他よりも高く評価したり/しなかったりするのは、私たちが肉体であると信じている以上は避けられない」というお話で、これは本当にそのとおりだなと。家族や友達は大切だと思えるけど、地球全体の会ったこともない人々に思いを馳せるってなかなかないもんな。。。

その肉体というのは常に身体的・精神的な必要性があるものなので、その結果、私たちが必然的に「その必要性を満たすかどうか」でいろんな物事を評価するようになるというのは納得です。例えば物質的な必要性として、酸素、水、食物といったものがあるとすると、私たちはこうした必要性について「綺麗な空気 vs. 大気汚染」「清らかな水 vs. 汚ない水」「健康食品 vs. ジャンクフード」といった区別をしていくみたいな。

No.14977/p208  Indeed, we could say that all our relationships are special because they are based on separation: I am my self, you are yours, and I want (or am in) a relationship with you…

なかでも、私たちの精神的な必要性というのはなかなか強力で、その必要性ゆえに特定の人々を愛の代替物にしたり、罪悪感のスケープゴートとして使ったりしているという話の説明が生々しかったです。たとえば「私とあなたが関係を持つ理由」を大別すると:

・もしあなたが私に対して慈善的で親切であれば、私の必要性は満たされ、その関係は愛と呼ばれる。→[特別な愛]

・もしあなたが私の必要性を満たさないなら、その関係は憎悪と呼ばれ、私はあなたの無罪性を奪うことにする(=有罪とする)。→[特別な憎悪]

特別な愛の説明はわかりやすいですが、特別な憎悪の説明には “相手の無罪性を奪う” という耳慣れない表現があります。これは “相手を有罪とすることによって自分を無罪とする” という理屈です。なるほど、言われてみれば。。。
どちらの特別性の形も、私たちが分離した人々であるという二元的な知覚に基づいており、こうした特別な関係がホモサピエンスとしての私たちの人生でずっと続いていく仕組みとなっているのだとか。

自我が、個別化という心の決断を肉体に投影することによって、あたかも肉体こそが孤立性という問題の原因+解決策であるかのように見せかけるというのが、なんだか天才的な作戦に思えてきました。それこそが「特別な関係」という手段であり、それは「他の肉体と繋がることによって孤独という苦しみを乗り越えさせる試みである」という話が続きます。。。

No.15117/p212  Specialness comes to the Son’s rescue, for it seemingly joins him with other bodies as the way of overcoming the pain of loneliness…

ところが、肉体同士をくっつけようとする方法によって実際に繋がることになるのは、まさかの罪悪感のほうだった!というオチが。なぜなら罪悪感こそが肉体を分離させている原動力そのものだから。つまり、私たちは特別なパートナー(恋人とか家族とか)に対して、暗にこう言って縛ってるらしい:「もしあなたが私を見捨てるなら、あなたは自己中心的で不親切であり、あなたは私に対して罪を犯すことに罪悪感を感じるべき」(うわ〜、言葉にすると身も蓋もない束縛ちゃんだけど、このロジックは馴染みがあるう〜)

世間一般、特にキリスト教的な世界観では、婚姻に代表されるこうした関係性が尊いものだということになってますが、「こうしたものが聖なる結びつきだというフリをするのは狂気であり、私たちの幻想を維持するものだ」とハッキリ断言される博士。。。いつか白馬の王子様に出会って幸せな結婚をするわ〜♡と夢見ていた頃の乙女な私が聞いたら泣いちゃいそうな話です。まあ、今は立派なBBAになったお陰で耐性が(以下略)

でも博士が言ってるのは特別な愛は罪深いとかダメとかいう意味ではなくて、「愛の名のもとに他者を操り、対立し、罪悪感を再生産し続けるような真似は、結果的に私たち自身を糾弾するのと同じ」という事を言っているように思います。私たちが本当はひとつなのだとしたら、理屈から言ってそうならざるを得ないよなー、と考えさせられたのでした。

*****

。。。という感じで、15章前半は「特別な関係」の正体について割と生々しい解説があったおかげで、読みながらひいいいと思っておりました。

そういえば若かりしころラブラブだった時に、そこはかとなく感じていた束縛感みたいなものは、まさに罪悪感によって自分も相手も縛り続けるというロジックだったんだなー、と今更ながら納得です。とはいえ、「それって束縛じゃない?私もっと自由にやりたいんだけど」なんて言ったらオシマイなので絶対に言えない。。。と思ってた私の方こそまさに同じロジックを採用しているわけで、じつに見事な投影というか。

まあ、あれもこれも特別な関係でみんなずっぽり自我の戦略にハマってますね、という話のまま放置されちゃうと救いがない感じもしますが、15章の後半にはその答えともいえる「聖なる関係」の話もちゃんと載ってました。次回はそのへんの感想も書いてみたいと思います。

というわけで、次回 Chapter 15 (その2)に続きます!

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