ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20201019(x2)

FACIM読書会 10月 JTT Ch.14 (その2)

(つづき)

ところで今回、ふとJTT本の引用箇所をテキスト側に逆転記してみたところ、ポイントとなるテーマ(見出し)に沿って順番に抽出…という手順がテーマ毎に繰り返されている事に今更ですが気づきました。しかも、それらのテーマ毎の引用は決して重複することなく、まるでモザイクのように美しく組み合わさっていたのでした。そういう事だったのか。。。(もっと早くに気づきたかった orz)

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 14 — Teaching for Truth p174-

“The Happy Learner” p174 (No.13771)
No.13805/p171 There is no order of difficulty in miracles because there is no hierarchy of illusions…
・「奇跡に難しさの序列はない」の理由は、「幻想には順位はない」から。糸くずから世界大戦まで、この世のあらゆるものは等しく幻想である。なぜなら、それらは実在性のない二元的な世界の一部だから。
・それらは無からきているゆえに、無である。想念はその源を離れない:つまり無の源は、無の世界にしか行き着かない。

Bringing the Darkness to the light — Looking at the Ego p177 (No.13984)
No.14055/p179 The ultimate interference placed on true communication is our having taken the…
(T-14.VI.8)「…聖霊はコミュニケーションを回復させるために、何であれそれを妨害しているものはすべて除去しなければならない…」より:
・真のコミュニケーションに対する究極の妨害とは、私たちが「小さな狂った考え」を深刻に捉えたこと。私たちが他者の自我に反応するとき、私たちの平安を影響させる力を与えてしまう、という誤りを強化する。
・一方、聖霊の穏やかな防衛のなさと繋がるとき、「自我は愛を妨害することができる」という考えを笑って退けることを思い出させてくれる。
・他者を裁きたい誘惑にかられた時はいつでも、それが赤い警告であると認識する必要がある。そのとき何か間違っているのは私たちの心であって、他の誰でもない。

No.14069/p179 The union Jesus speaks of is not of truth and illusion, for what is real can never…
(T-14.VII.1:1-5)「…融合においては、実在しないものはすべて必ず消え去る…」より:
・ここで言っている融合(union)とは、真理と幻想の融合のことではない。なぜなら、”実在するもの” と “実在しないもの” が和解することは決してできないから。
・むしろ、真理と幻想という対極が、奇跡を通じて共に差し出されたとき、非実在の方はその幻的な性質ゆえに消え去る。そして、一なる子(Sonship)と創造主(Creator)の融合という実在性だけが、唯一の真実として残る。
・この智識は、自我の夢の中にあっても反映される:私たちが見ていた差異というものが “表層的かつ非実在である” と思い出すことで、神の子の同一性を認識することによって。

No.14126/p181 Once again we see Jesus emphasizing that the problem is not what we have…
(T-14.VIII.1:1-5)「…あなたが閉ざした闇の扉の背後には何もない…この扉を閉ざすことこそが、あなたの中に輝く神の力の認識を妨害している」より:
・ここでもイエスは次のことを強調している。問題は「私たちが抑圧したもの(闇の扉の背後にあるもの)」ではなく「私たちが抑圧を行ったこと(扉を閉ざす行為)」のほう。
・私たちが抑圧してきたものが無である以上、分離と罪悪は幻想である。つまり「無(nothing)であるもの」を「何か(something)である」と信じることが問題なのだ。

The Miracle p177 (No.14177)
No.14211/p183 In the ego’s thought system, everything is complicated. In order to have our needs…
・自我の思考体系では、あらゆるものが複雑化している。他者の代償のもとに自分たちの欲求を満たすためには、私たちは無数の課題を考慮する必要があり、常に計画し続けなければならない。
・同盟を構築することは、個人間でも国家間でも高度に複雑であり、達成は困難。味方にする人々を説得するために多大な努力が必要である一方、悪いのは敵だと証明し続ける必要がある。
・奇跡は、これらすべての事柄を「全員が狂っている」とみる単純さ(simplicity)によって切り裂く。人々がこの世に存在すると思っている以上、彼らはみな狂っている。なぜなら狂った人々しかこの世に来ないから。

No.14220/p184 We cannot understand how everyone is the same because people seem so different…
・私たちは全員が同じであるということが理解できない。人々はみな違っているように見えるし、ものごとには順位(hierarchies)があると信じているから。例えば、「不親切な思いを巡らすこと」「厳しい言葉を浴びせること」「爆弾を落とすこと」の間には違いがあると思っている。私たちは殺人にもレベルの違いがあると思っている(自分たちのやる殺人は正当化されるが、相手のそれは許されない)。私たちの憎悪に満ちた考えは許容されるが、他者のそれは認められないと思っている。
・複雑化した幻想の順位(hierarchy of illusions)への信念こそが、この世界の狂気である。だが、逆説的なことに、このコースが難しい理由はまさにそれが単純(simple)であることによる。それは「私たちが等しく狂っているからこそ、私たち全員が同じ訂正を必要としている」ことを教えてくれる。
・奇跡の正気さは、極悪さ(愛を求める狂った叫び)に対しても愛を持って応答することを可能にしてくれる。心眼(vision)には、愛以外のものは見えないから。

Forgiveness p186 (No.14295)
No.14352/p187-188 Projecting our perceived sin onto others, we seek to make them the cause of our…
・私たちは知覚された罪を他者に投影し、それを私たちの不幸せの原因にしようとする。痛みと苦しみはその結果であり、すべての人々を指差して糾弾している:「あなたが私にこんな仕打ちをした」つまり「兄弟よ、私を見なさい。あなたの手にかかって私は死ぬ(T-27.I.4:6)」。
・全ての人に例外なく「彼らのしたことによって私たちがどれほど苦しんだか」を示すことによって、私たちは”彼らの罪が原因であり、私たちの痛みはその結果である”  と教えることになる。私たちではなく彼らが罰されるべきだ、と。
・一方「人々がどんな事をしてきても — たとえ肉体的な苦痛を与えるような事でも — 私たちの愛が影響を受けることはない」と示せば、私たちは”彼らの罪には何の結果もない” と教えることになる。「兄弟よ、私を見なさい。あなたの手で私は生きる(T-27.I.10:7)」

No.14508/p192 Our goal is not to be in Heaven, but to reflect its Oneness by seeing no one’s interests…
(T-14.IX.5:1-3)「この世界においてあなたは、創造主の聖性があなたのもとから辺り一面に輝きを放つような、一点の曇りもない鏡となることができる。あなたはここで天国を反映させることができる。」より:
・私たちのゴールは天国にいることではなく、天国の一体性を反映させること。「誰の利益(interest)であっても私たちのものと離れてはいない」と見ることによって、自我の特別性の神々の否定を誓うこと。それがコースの核心なので、このことを強調しすぎることはない。
・私たちはみな、自我の狂った夢(分離と憎悪)から目覚める必要性を分かち合っている。まず先に「私たちが他者に押し付けた罪悪を赦す」という機能を全うするまでは、「私たちの天国における創造」という機能を知ることはできない。

No.14544/p193 Holiness and love are not possible here, but we can be their reflection when we choose…
・神聖さと愛は、この世では不可能なもの。しかし私たちは、分離の代わりに贖罪を選ぶことによって、それら(愛)の反映となることができる。
・私たちが肉体と同一化している以上、真実を直接的(direct)に教わることは不可能。しかし、真実が反映されたもの(聖なる関係/赦された関係)を通じ、間接的(indirect)に学ぶ事は可能である。

No.14554/p193-194 As long as we fear the directness of Heaven’s eternal love (knowledge), we need the…
・私たちが天国の永遠の愛(智識)の直接性(directness)を恐れているあいだは、私たちは赦し(知覚)の間接性(indirectness)を通じて「より恐怖の少ないやり方で(天国の)全一性を反映させる」ことを必要としている。
・「私たちの不満を奇跡へと運ぶ」という小さなステップを経ていくことで、私たちの恐れと罪悪感が消滅していき、やがてそれは一なる子(Sonship)全体へと鳴り響く「質的な転換(T-5.I.7:6)」に達する。それは私たちすべてを、時間から永遠、罪悪から聖性、反映から真実へと持ち上げる。

*****

カミラちゃんの一言
前回の感想の続きになりますが、ここにも「直接的な学び」と「間接的な学び」の対比があります(No.14544、No.14554)。これは「世界が幻想であるなら、なぜ世界を使って赦すことが必要なのか?」という問いに対する答えのように思います。つまり、神の愛に対する恐れ(個別性が失われることへの恐怖)があるうちは、形態というシンボル(これなら個別性は脅かされない)を用いて、少しずつ心に戻りましょう、という話です。

直接的な学びなんて無理!と思い知って悶絶してた想い出のひとつとして、以前、ニコちゃん問題(不倫のお誘い)で大混乱だった時のことがあります。「赦すこと」が正解なのは頭で分かっていても、実践できる気がしなかったので大変苦しかったです。そのような状況下で「あなたの誤った選択を裁かずに見つめ、いかなる事にも影響されずに平安でいましょう」などと言われても、混乱した私には届かなかったと思います。orz

つまり私の場合、恋愛という乱気流に揉まれているときにコース的正論はあまり役に立たなかったということです。そのへんは個人差あるでしょうけど、非常事態においては “動揺を裁かずに見る” といった基本的な事すら難しいケースだってあると思います。この時期は、私の葛藤をありのままに受け止めてくれた先輩方にだいぶ救われたというのが実情です。

そんななか、ものすごく印象に残ってるのが非スピ友達のカミラちゃんで、私の悩みを聞くやいなや、「ちょっとニコちゃんとやらを連れてきなさいよ〜、私が面接するから!でもって彼に『ちょっとアンタ、不倫したいってどういうつもり?独身のトベちゃんをどうしたいの?ねえねえ』って聞きたい、あーすごく聞きたい(≧∀≦)」と爆笑しながら味方してくれたのでした。

なんだかんだで、この冗談みたいな一言が私に一番安心感をもたらしてくれたんですよね。。。でも、そんなのはACIM関係ないやと思ってスルーしてたのですが、今にして思うと、カミラちゃんの一言は「私はあなたを見捨てないし、世界も不倫もお笑いに過ぎない」という愛ある想念を象徴していたのかな、と思ったりもします。(私の心が軽くなった、という主観以外に何の証拠もありませんが)

以上、JTT本14章からのまとめ&感想でした〜。

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

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