
読書会 JTT-15章(2) 特別な関係/聖なる瞬間
(続き)
JTT本15章、The Holy Instantの後半いってみます。前半は「特別な関係」の残念な正体についての話が印象的でしたが、それに対するコースの回答が「聖なる関係」であり、15章後半では次のような言及がありました。
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
Chapter 15 — The Holy Instant
特別な関係の使いみち
No.15588/p226 The holy relationship is an extension of the holy instant, the special relationship looked at through vision and cleansed of the ego’s purpose of guilt…
まず「聖なる関係」というのは聖なる瞬間が延長したものである、という説明に続いて、次のような特徴が挙げられています:
聖なる関係とは、
・特別な関係が心眼によって見透かされたもの。
・特別な関係から自我の目的(罪悪)が取り除かれたもの。
これだけだとなんのこっちゃですが、「聖なる関係」というのは、仲がいいとか信頼があるとかラブラブみたいな特定の状態を指している訳ではなく、形態や行動とは何の関係もないとのこと。そうではなく、「聖なる関係」というのは「”特別な関係” の目的が、自我から聖霊へとシフトするプロセス」を指しているそうです。
自我の目的が分離や神の否認だとすると、聖霊の目的は心の融合と贖罪ということになります。つまり「特別な関係」を自我の訂正に用いることが「聖なる関係」であり、関係のある2人のうち少なくとも1人が聖なる瞬間を選ぶ(赦しの目で見る)ことがそれに該当するらしい。
。。。と言われても、「なるほど、聖なる関係分かったー!」とはならなかったんですが、少なくとも「この関係の目的は何なのだろう?」と立ち止まる基準になるようには思います。たとえば、すごく愛し合ってる理想のパートナーがいたとして(それはそれで全くノープロブレム)、その人を愛する理由が「優しいから」「大切にしてくれるから」「私を見捨てないから」だった場合、裏を返すと「それらの特質が失われたら自分は損失をこうむる(=影響を受ける)」という分離の宣言をしている事にもなると気付くことができるわけで、これは新しい視点と言えそうです。
もっとも、博士は「聖なる関係は良くて、特別な関係はダメ」という短絡的な話をしてる訳ではないので、特別な関係そのものはあって当然、というノーマルさは大事かも。そもそも親子関係をはじめ、特別な関係がない人なんてこの世にはいないし、特定のパートナー仲良くすることだって普通に素晴らしい体験として賞味すれば良い話なので、そこに判断を持ち込む必要は全くないと思います。要は、心のどこかでそれが特別な関係であるということを裁かずに観察してみましょう、という招待状のようなものかも。
正しい心を象徴するシンボル
No.15696/p229 To repeat what I just wrote, until we can truly understand (i.e., experience) the oneness of God’s Son, both within the dream and in reality, we need symbols to represent our right-minded self…
もうひとつ、私たちが神の子としての一体性を真に理解(体験)するまでの間は、私たちには正しい心の象徴が必要だという話がありました。
神の子としての一体性を体験的に理解する、などという表現を前にすると「それっていつ到達できるんだよ…」と、途方も無い隔たりを感じたりしちゃうんですが、だからこそ、そこに到達するまでの途上にいる間は「正しい心を象徴するシンボル」を道しるべにする事が不可欠なのでしょう。
ACIMが用いているのは、イエスと聖霊というお馴染みの2つのシンボルになります。ただ博士は「正しい心の象徴というのは他にも山ほどある」と言っています。つまり菩薩でも、天使でも、聖母マリアでも、それがその人にとって「正しい心の象徴」となるのであればその形態は重要ではない、ということです。それよりも、赦しという”内容”を選択することのほうが重要であり、それらの形態が象徴という役割を超えて私たちを源へと連れ帰るという事について、テキストの以下の箇所が紹介されてました:
「だから覚えておきなさい。しるしも象徴も、源と混同されてはならない。なぜならしるしも象徴も、それ自体ではない何かを表現しなければならないものだからである。その意味はそれ自体の中にはあり得ず、それが表象しているものの中に探されなければならない。(T-19.IV-C.11:2)」
この文脈においては、異なる霊性の道を歩んでいる(異なる象徴を用いている)人々を排他的に扱うことは無意味という事になるかと思います。たとえば有名なマザー・テレサはカトリックの修道女であり、彼女にとってのイエスや聖霊といったものは形態的には伝統的なキリスト教観に基づいていたに違いありません。それはACIMが教えるイエスや聖霊のイメージとは全く異なるものだけど、だからといってマザー・テレサが赦しを実践しなかったという根拠にはならないと思うのです。
ちなみにマザー・テレサは、貧しい人々すべてに等しくキリストを見る、という姿勢を終生貫いた事が知られています。これこそが博士のいう「内容」であり、コースが教える赦しとも一致する部分なのではないかと思っています。
聖なる瞬間=いま
あと興味深かったのが、分かるようで分からない「いま」についてのお話です。
No.15210/p214 Under the Holy Spirit’s loving guidance, time’s purpose is to teach us there is no time; hence there is no separation and no sin, guilt, or fear…
自我にとっての時間の目的とは「過去に犯した罪 – 現在の罪悪感 – 未来の恐れ」によって分離を維持させることにあるけど、聖霊の愛ある導きのもとでの時間の目的とは「時間はない」ということを教えるためのものになるのだとか。つまり時間がないということは、分離はなく、過去の罪もなく、現在の罪悪もなく、未来の恐れもないということになります。すると必然的に、そこに残るのは聖霊が私たちの心に保持してくれている平安となるわけで、ロジックとしては分かりやすいなーと思いました。
一方で、学習者にとって挑戦となるのは、①コースの非二元的な形而上学(=時空の世界は幻想である)を、②肉体が本当に存在するかに見える世界(=時空の世界は存在する)のなかで「実践的に統合」していくことであって、これは本当に大変なことだなぁと思ってしまうわけです。
まあ博士もそのへんはちゃんとご存知で、次のようなフォローがありました:
No.15218/p215 A temptation of many students of A Course in Miracles is to become discouraged by their ego’s enormity, believing it would take a long, long time for them to undo it…
多くのコース学習者にとっての誘惑は、自我の大きさに圧倒されて「これほど途方も無い自我を訂正するには、ひどく長い時間がかかるだろう」と弱気になってしまうことだそうです。だけど、その発想こそが自我の思うつぼであり “長い時間がかかる” と考えることによって直線的な時間を実在させてしまうのだとか。。。!たしかに!
しかし、私たちは聖なる瞬間を選ぶことによって、罪深い過去と恐ろしい未来を訂正し、現在を永遠へと解放することができるそうです。それも、まさに「いま」そうすることができる、と。これは時間軸に関係なく、いまこの瞬間に「罪 – 罪悪 – 恐れ」に基づいた選択をやめられるだけの決断の力が私たちに備わっている、というグッドニュースのように思いました。
そういえばコースやってて、赦しに取り組んでいる最中に「かなり大きな動揺や苦しみが、なぜか一瞬で消え去った」ような説明のつかない不思議な経験をしたことがある人っていると思うんですが、これがその力の発露なのかも知れないですね。それが聖なる瞬間を選んだ結果かどうかは証明できないとしても、そういう体験は大切にしたいなと思ってます。
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以上、どれも実践すべき時にまんまと忘れている事ばかりなので、後から読み返した時にすぐ思い出せますように☆と願いを込めつつメモしてみました。
次はいよいよ16章、JTT本もようやく折り返し地点に到達です!?
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
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