ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20201019(x2)

FACIM読書会 10月 JTT Ch.14 (その1)

10/9。

コロナ時代での全員リアル参加が難しかった読書会ですが、いろいろ知恵を絞った結果、郊外のカフェに集う方法で試験運用中です。これで再び安定開催できると良いけど。まあ、なるようになるでしょう。(^^)

今回の14章のメモは2分割でいってみようと思います!

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 14 — Teaching for Truth p159 (No.13364)

The Atonement Principle p160 (No.13381)
No.13406/p160 “Unknowing” refers to the ego thought system. Knowledge in A Course in…
(T-14.VII.3:5-6)「神にとっては、知らない(unknowing)ということは不可能である…」より:
・「知らないこと(unknowing)」自我の思考体系に属する。コースでは「知識=天国」であり、その逆が「真実の否定」または「知らないこと」。
・「知らないということは不可能である」と言われるのは自我にとてつもない恐れを引き起こす。なぜならそれは「どうしてこれほど狂った思考体系を信じることができたのか」という質問に対する聖霊の答えだから。
・聖霊は「自我は幻想であり、分離が可能だったという考えは不可能である」と言う。この贖罪の宣言が、神ではないあらゆるものを否定する — つまり自我は存在しない、と。

The Ego’s Fear of the Atonement – Dissociation p162 (No.13422)
No.13441/p161 The “same place” is the mind, which is not capable of simultaneously holding…
(T-14.VII.4:9-10)「それらをひとつところに運びなさい。そうすれば、両者が絶対に両立しないという事実が一瞬にして明らかになる。一方は消えてなくなるだろう。なぜなら、他方が同じ場所(same place)に見えているからである。」
・ここでいう「同じ場所(same place)」というのは心であり、心は光と闇を同時に持つことはできない。
・心がその両方を同時に持つ事ができるのは、それらが分離または解離(dissociated)した時に限られる。つまり、私たちはその両方が存在していると気づくことが出来ないということ。

No.13447/p161 If we are guilty, we project our guilt onto others, seeing them the same way…
・もし私たちが有罪なら、私たちはその罪悪感を他者に投影して相手を自分と同じと見る(=有罪と見る)。同様に、私たちが自分たちの真の無罪性を思い出せば、他者も無罪であると見ることしかできない。投影(この場合は愛の延長)が知覚を作り出すから。
・罪悪感と無罪性は相互に排他的な想念なので、双方のコミュニケーションはおろか意識の中に共存することさえできない。

No.13480/p162 To summarize, the ego’s big fear is that we can give up our belief in it through…
・まとめると、自我の大きな恐れとは、私たちが心の決断のちからを使って自我への信念を手放してしまうこと。そのような事態が決して起こらないようにと、自我は光から闇を切り離し、解離(dissociation)という手段を用いた。そして自我は、私たちの唯一の現実が「罪、罪悪、恐れ」であると教え、その恐れに対抗するための防衛として、世界と肉体を作ってそこに隠れさせた。このようにして、自我は私たちを聖霊(=自我の訂正の源)から遠ざけた。

Teaching and Learning p170 (No.13490)
No.13522/p163 Since it is almost impossible to learn directly from the Holy Spirit or our Self…
(T-14.I.1:7-2:1) 「…否定から作り出されている方向性のない世界の中では、真理を間接的(indirect)に証明するものが必要である」より:
・聖霊から直接的(directly)に学ぶということがほとんど不可能である。なぜなら私たちの分離した自己を失うことへの恐れがあまりにも大きいから。だから私たちは「特別な関係の赦し」といったかたちで日常的に贖罪の原理を反映させることを通じ、分離していない状態についての間接的(indirect)な証拠とする必要がある。
・私たちは、恐れを軽減しつつ贖罪を選ぶやり方を学ばなければならない。それが、(ある肉体が他の肉体とやりとりするかにみえる)人間関係についての「聖霊の教室」を構成している。だが実際には、全ての学びは心の中で起こっており、私たちがやりとりしているのは私たち自身でしかない。
・しかし私たちは、そのやり方(直接的に心に戻ること)は破滅を意味すると信じ込まされている。だから私たちは、(赦しによる)間接的な方法を通じて「自分たちは分離してなどいない」学ぶ必要がある。

No.13534/p164 We are so identified with guilt and bodies that to be told they are unreal is too…
・私たちはあまりにも罪悪+肉体と同一化しすぎているために、「それらは実在しない」と告げられることは大変な恐怖である。だからこそ、間接的(indirect)な学びが必要となってくる。
・私たちは他者を赦すことによって、私たち自身が既に赦されているという事を学ぶ。そうすることは、気づかないうちに「私たち自身を赦している」ことになるから(想念はその源を離れないので)。

No.13580/p165 We cannot learn that the separation happened because it never did. We merely…
・「分離は起こった」という事を学ぶことはできない。なぜならそれは一度も起こっていないから。私たちは単にそれが起こったと”思っている”だけ。そして心の狂った考えは、肉体の特別な関係という形に極まっている。

No.13692/p168 We know we are learning the Holy Spirit’s lessons of undoing guilt (the mind’s…
(T-14.XI.5:1-3)「…もしあなたがいかなる種類の恐れからも完全に自由であり、あなたと出会う人々や、あなたを想う人々までもが、あなたの完全なる平安を共にするなら、その時こそ(中略)あなたは神のレッスンを学んだと確信して良い」より:
・罪悪の訂正という聖霊のレッスンを学んだと分かるのは、①私たちが安らかな気持ちである時だけでなく、②私たちの周囲にいる人々までもが平安で恐れがない、という時。
・この識別法が二本立てである理由は、①の感覚は自分を欺きやすいが、②の周囲の人々までを欺くことは困難である、という事が反映されているから。
・私たちがいい気分になる(という基準)は私たちを簡単に惑わすが、私たちの何かが違う—「もっとたびたび微笑むようになり、額は穏やかである (W-pI.155.1:2-3)」— と他者が認識することまでは欺けない。

No.13752/p170 We do want peace, but only on our terms. It is a peace that does not include…
・私たちは平安を欲してはいるが、それは私たちに都合の良い平安であり、全ての人々を含んではいない。なぜなら私たちの特別な要求は他者の代償により満たされるものだから。
・この自我バージョンの平安からは何も理解することなどできない。真の理解とは、キリストの心眼(vision)によるもの。つまり共通の目的(利益)を知覚することが、この夢の中における唯一の平安の源である。
・私たちが真に欲しているのはこの心眼のほうであり、それによって「どちらか一つだけ(one or the other)」の原理は「共に一緒か、さもなくば無か(together, or not at all)」の原理へと喜んで交換される。

No.13767/p170 Whenever we look at a situation or relationship through the eyes of our needs…
(T-14.XI.13:3-14:2)「あなたが自分は知っていると思うときはいつでも、平安はあなたから去っていくだろう。なぜなら、そのときあなたは平安の教師を放棄したからである…」より:
・私たちの必要性、過去の痛み、快楽への期待、といった見地から出来事を眺めるときはいつでも自我に助けを求めており、それは必然的に攻撃となる。その時点で心に戻り、聖霊の平安の目を通じて見させて欲しいと頼む必要がある。
・私たちは「自分は何も知らない(=私の反応は私の知覚と同じくらい狂っている)」と言う意欲を持たなければならない。この謙虚さを受け入れることによってのみ、私たちは「幸せな学習者」となることができる。

*****

間接的な学びの必要性

個人的に14章でもっとも印象的だったのは、「直接的な学び」と「間接的な学び」の対比でした。これはこの章で何回か出てきたキーワードなのですが、一番分かりやすかったのがNo.13522あたりで、「私たちは分離した自己を失うのが怖すぎるため、聖霊から直接学ぶ(=直接心に戻る)ことは不可能」だから 「”この世界で人間関係を赦す” という間接的な方法を用いて、恐れを軽減させながら心に戻ってゆく必要がある」というお話でした。

直接的な学びでいうと、たとえば「赦しは心のものであって、形態は関係ない」などが思い浮かびます。真理です。でも、手に釘を打ち込まれても形態は関係ないって言えるレベルで学んでいる人は超わずかだと思います。似たようなのに「God is.」「世界はない」「それは投影」「すべては幻想」等々言い方はいろいろですが、共通点としてはどれも神の愛に近い(分離した自己を保ったまま識ることはできない)ゆえに、この世レベルでいきなり腑落ちさせるのは難しいタイプの学びです。※知的に思いを馳せることは大事だと思うけど。

一方、間接的な学びというのは、そもそも「形態(象徴)を使わなければ心にアクセスできない」という段階がその手前にある事を指していて、通常はこっちのほうが受け入れやすいと思います。それは形態や知覚といったもの(直接的な学びが教える”真理”を反映するもの)を否定しておらず、むしろそれらの象徴を心に戻るための道具として使うように、と励ましてくれるものだと感じています。

ぶっちゃけ最初のころは「苦手な人に親切にしてみた」とか「反撃しても良い状況だったけどやめてみた」みたいな形態的な努力から入ることだって珍しくないはずです。このように外的状況をどうにかしようとしてる段階は、傍からみるとコース的にツッコミ放題に違いありませんが、当人はその段階からも間接的に学んでおり、後に腑落ちする瞬間のための大切なステップかも知れません。

外的状況が変化すること自体は全くコースの目的ではないですが、いかなる状況でも形態が象徴するナニカは必ずあるはずです。たとえば、何度も同じ問題に対する魔術的な解決を試みたのちに、やっと自分こそがその選択を行っている主体であったと気付く事もあるでしょう。そうした自覚に至るまでの過程というのは、本人にとっては決して無駄ではないように思うのです。

ならば、その過程で得られたものを糧にして、徐々に時間をかけながら、赦しが心のものである(外的な状況に左右されない)という認識に移行していく…、という生涯にわたる長期的なプロセスを許容していくことも必要なんじゃないかな〜、と思った次第です。

というわけで、次回 Chapter 14 (その2)に続きます!

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