FACIM読書会 12月 JTT Ch.5 (その2)
12/14(つづき)。
今回の読書会は盛り上がりすぎて長丁場となり、最終的にはみんなでごちそう食べに行って満腹になってから解散となりました。(^o^)/
我々は文字通り朝から晩までぶっ通しでしゃべりまくってる(主に脱線話w)ので、普通に考えたらかなりハードワークだと思うのですが。。。なぜか、大して疲れないんですよね。これはいつも不思議だなぁと思います。
というわけで、5章の続きいってみまーす。
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.1)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
★Chapter 5 Healing and Wholeness (p137〜)
No.4789/p137 When we are in a state of unhappiness or disquiet, it is only …
・私たちが不幸だったり気持ちがざわつくとき、その唯一の理由は私たちが誰かに愛を差し出さなかったから。「あなたに愛がないから私が不幸せになった」といった理由ではない。本当の理由は自分に愛がないからだ。
・この罪に対する罪悪感は途方もない。それは神を愛さないという原初の罪悪感。私たちはその罪悪感について、それを否定し、外に投影し、自分が隠蔽した罪について他者を糾弾する以外に出来ることはない。
・しかしそれでも真実は残る。私たちが完璧な喜び以外の状態にいるとき、その理由は、他者に対する愛ある想念、愛ある言葉、愛ある行いが欠けていたからだ、と。
No.4810/p138 It should be emphasized that A Course in Miracles never…
・コースは常に、形態についてではなく内容について言っている。しかし、だからといって我々が行動面で何もしないという意味ではない。それは単に「我々が行動する(形態)よりも前に、あらゆる手を尽くして可能な限り心を癒しておく(内容)」ということ。
・そうするためには、まず心があると認識し、私たちが動揺している時は、心がそのように決断したからだと捉える必要がある。私たちは皆、自分が動揺した時、最初に訪れる衝動が状況/他者を非難したくなる事だと知っている。そうする代わりに、私たちの不幸というのは心の分離の決断の結果であり、その状況/他者というのは心に戻る手段(=間違った選択に気づくきっかけ)だと認識すること。
・いちど真の問題に気づけば、外の世界(状況/他者を変えようとすること)から心の決断へと、焦点がシフトする。私たちの心が癒されれば、何をしようとも愛あるものになる。たとえ、その態度が断固として厳しいものだったとしても、その行為が意味するところは優しさとなる。
No.4822/p138 It is this simple logic that can make A Course in Miracles…
・「決断は難しいものではあり得ない(T-5.VII.6)」という部分が、コースを腹立たしいものに見せている。イエスは言う:「私に向かって、決断が出来ないとか難しいとか言わないように。あなたはすでに決断をしたのであり、今それとは反対の決断をするだけで良いのだから」と。つまり私たちは過去の決断が幸せではなかった事に気づき、それを訂正するだけという事。
No.4839/p139 Jesus asks us to use the unholy relationship as a means of…
・「もし自分が平安でないなら、自分は誤った選択をしたのであり、別の選択をするかどうかは自分の責任なのだ」と言うときの訂正プロセスとは外的なものではない。心の決断の主体こそが、私たちの運命を決める主人(masters of our fate)なのだ。
No.4853/p139-140 When we speak of the three steps of forgiveness, this is the…
・赦しの3つのステップについて。最初のステップ:「私が平安でない時、その理由は他者や状況ではなく、単に自我を選択したからだ」と認めること。このステップで罪悪の問題を心に戻す。
・次のステップ:「私は平安ではないので、私は誤った選択をした」と言うことで、世界を信じ心を忘れるという自我の試みを訂正する。世界に向いていた注意を決断の主体に移し、選択の力を行使する。
・最後のステップ:私たちの誤った選択(闇の幻想)を聖霊の真実の光に照らすことで、自動的に罪悪感の結果が訂正される。真っ暗な部屋で電気のスイッチをつけたら暗闇が消えるのと同じ。それは光が暗闇に対して何かをしたわけではなく、単に光の存在によって照らされただけ。同じように、聖霊が私たちから自我を取り去ってくれるのではなく、私たちの決断を行う心の選択そのものが自我を打ち消す。
No.4939/p141 This does not mean we do not get angry, but only that we…
・私たちは怒ってはいけないのではなく、それを正当化しようとする試みのほうが問題なのだ。私たちが誰かに腹を立てている間は、他者を排除する選択をしているだけでなく、自分自身も排除している。であれば、明らかに不満を持つことは私たちにとって得策ではない。
No.4966/p142 Here Jesus tells us that we cannot learn or practice this course…
・イエスはここで、私たちが自分だけでこのコースを学ぶことはできないと言っている。それは肉体的なパートナーが必要だという意味ではなく、私たちの愛と赦しから他者を排除することはできないということ。
・もし自分一人だけ天国に行けると考えるなら、天国に到達するのは不可能だろう。その考え自体が分離の想念を強化しているからだ。
No.5000/p143 If we like how this sounds (and who wouldn’t?) we must say…
・「私は、決してあなたから離れず、あなたを見捨てない(T-5.IV.6:5)」という言葉を心地よく感じるなら(そうでない人などいるだろうか?)、同じことを誰にでも言うべきだ。イエスが決して私たちを見捨てないことを有難く思うなら、まさに私たちが見捨てようとしている人々にも同じように言う必要がある。なぜなら全ての人々を包含しない限り、神の子は十字架に架けられたままであるから。この赦しの全一性がコースの重要なテーマのひとつ。
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Chapter 5からは以上になります。
今回、博士が行動面の事についてチラッと言及していたのが印象的でした。行動については混乱のネタになりやすい気がしてて、下手すると他者を裁く口実に使うこともできちゃうし。。。
だけどここで言ってるのは、「学習者であっても行動面を軽んじて良いわけではない」という話であって「ただ、何か行う前に心を癒す意欲を持ちましょう」とのこと。要は何を行うにしても、そこだけが肝なのかなと思います。
あと、「幻想を真実の光に照らすことは、暗い部屋で電気のスイッチを入れたら暗闇が消えるのと同じ」という表現がわかりやすくて、個人的にお気に入りでした。(^^)
というわけで、今年の読書会はこれで終わり。
次回は来年1月にやりまーす☆
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
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