シンディ本読んでみました(2)
シンディ本 “A Course in Health and Well-Being” の話の続きです(前回はこちら)。トベ的にちょっと印象的だった箇所のひとつが「気分」に注目するというものでした。(以下の抜粋はトベの下手な意訳でごめんなさい)
Kindle版 No.859より(順不同):
『どんな瞬間にでも、あなたの”気分”を見つめることで、自分が今どちらの教師を選んでいるのか(聖霊か自我か)を知ることができます。』
『もしイヤな気分になるなら、それは自我です。もし平和な気持ちになるなら、それは聖霊です。この見極めにフィーリングが役立つのです。』
私は、今こうしている間にも自我か聖霊かを常に選び続けている、しかもそれは、今この瞬間の気分で簡単に分かる!という事にはっとさせられました。
もともとゲイリー本「神の使者」などの三部作は、かなりの説得力をもって ”赦し” の重要性にフォーカスしています。それはすごく大事な教えだし、避けて通れない道なのは明らかです。だけど同時に、私だいぶ勘違いしてたっぽい。。。
トベはこんな感じでした:
「そうか赦しのチャンスが来るのを待ってればいいんだな!よっしゃ待つぞー。。。何か起こらないかな。。。起こらないなー退屈だなー。。。zzz。。。。(そのまま忘れてコースアウトし、いざ有事の際に赦すどころかブチキレ)」
違うのね、そうじゃないのね!赦しの機会というのは、退屈で忘れちゃうようなインターバルで訪れるものではなく、日々絶え間なく、常に、連続的に、いまこうしてる間にも「気分」という形で訪れているから気は抜けないのよ!ということなのね (>_<)
。。。という観点で、例えば仕事中のトベの「気分」を振り返ってみると。。。おおう、ほとんど一日中、眉間にシワを寄せてしかめっ面をしている。なんというか、機嫌の良い状態のほうがレアだという事に気付いてしまった。。。orz
どうしたらいいのシンディ先生!
No.859より続き(順不同):
『あらゆる知覚が単なる解釈にすぎない(事実とは関係ない)、ということを思い出せば、ポジティブな気持ちやネガティブな気持ちになるのは、私たちの解釈がそうさせているに過ぎないと分かります。』
『何か感情が湧き上がってきた事に気付いたら、その感情を否定することなく、聖霊とともに見つめます。私たちが心の平和を乱すのは、自分や他者を解釈の目で見るからです。しかし、あなたが聖霊を通じて解釈するならば、聖霊は真の解釈—つまりあらゆるところに罪がないこと—を見せてくれるでしょう。』
ということは、べつに何も起こってないように見える”平時”でも、今の気分が平安でないと判定できたら(眉間にシワが寄ってたとか)、もうその時点で聖霊の解釈を思い出すべき理由があるということですね。
気がついたらなんとなく微笑んでるとか、優しい気持ちになっているとか、そういう小さなことを日々、短いスパンで意識し続けることが大事なのではないかと考えさせられました。やってみると結構難しいことだと思うけど。。。少なくとも、誰かに足を踏まれるまで赦しの実践を待つ必要はないのね。
ワークブックのレッスンが、時々かなり短いインターバルで頻繁に概念を思い出すように求めていることと重なるような気がしました。
出典:A Course in Health and Well-Being (Cindy Lora-Renard)
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