FACIM読書会 9月 JTT Ch.13 (その1)
9/13。
コロナ第二波が落ち着いてきたこともあって久々にリアル開催しました。実際に会うの何ヶ月ぶりかな?やっぱり直接会えたほうが楽しいですね。(≧∀≦)
ちなみに今回は諸事情により、たまさんと2人女子会でした。たまさんブログは毎度JTT本のまとめ方が内容に忠実でクォリティ高いです。すごい集中力!身近にこういうコツコツ型の人がいるから、私も楽しく続けられているんだろうな〜と思います。自分1人だったらとっくの昔に読むの挫折してた気がする(^^;)
そんなわけで今回は13章の要約いってみます。短くしたつもりだったけど、またもや9000字近くあるから3分割かな。。。
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
★Chapter 13 — The Guiltless World p125 (No.12254)
Atonement – I p125 (No.12263)
No.12285/p126 This is the Holy Spirit’s response to the Son’s question about the…
(T-13.VIII.3:3-5)「…分離とは単に、実相が間違って表現されたものに他ならず、何の結果ももたらさない」より:
・これが「小さな狂った考えについてどう思いますか?」という質問に対しての聖霊の答え。それは無であり何の影響も及ぼさなかったので、コメントするに値しない。分離とは “実相が間違って表現されたもの” 以上のものではないから。 ・(聖霊は)それ自体に実態がないものに対しては、「分離とは何のことか?天国の歌から一つでも音が抜け落ちることはなかったのに」という穏やかな微笑みを返すほかない。
No.12302/p126 Our only hope is that there is no hope in the world. True hope…
・私たちの唯一の希望は「この世界には希望がない」ということ。私たちが遠く離れた幻想の国で彷徨っていようとも、私たちの「神の記憶(聖霊)」は変わること無く心に保たれている。それが神の確実性に基づいた “真の希望” 。
Guilt: The Core of the Ego’s Thought System p127 (No.12322)
No.12349/p127 Jesus refers to repression or denial: we make guilt real and then…
・イエスは抑圧/否認について述べている:私たちは罪悪を実在させ、それから自分たちがそれをやったということを忘れた。抑圧は、防衛の手段としては比較的原始的なものだが、自我にとってはこれが最も力強い武器となっている。
・結局のところ、私たちに「誤った選択をした」という記憶がなければ、その選択を変更することなど望むべくもない。
No.12395/p129 Within the world itself, we escape from our personal sense of guilt…
・世界の中にいることで、私たちは個人的な罪悪感から逃れている。その(内在する)苦しみを他者に責任転嫁することによって。私たちが憤るとき、あるいは軽く動揺した程度の時でさえ、そう感じる理由は常に、私たち自身が自己嫌悪を隠そうとしているため。そのような動機がなければ、私たちは決して誰も攻撃したりはしない。
No.12455/p130 In the gospel stories, Jesus is accused of blasphemy, the reference…
・福音書(聖書)では、イエスは神を冒涜したとして迫害された。実際、世界は「自我のない者」は誰であれ攻撃する。ソクラテスも、自我の罪悪/裁きの要塞を脅かしたために殺害された有名な例だ。世界にとっては、このような「教師たちの教師(M-26.2:2)」は、世界が表明するあらゆることに反するだけでなく、世界に対する攻撃と見なされる。
・たとえば、もしあなたが戦争を支持しないならば、あなたはしばしば裏切り者の烙印を押されるだろう。なぜなら国家の礎である分離と攻撃(あらゆる自我の思考体系)を裏切っていると見なされるから。
No.12466/p131 This was specifically meant for Helen and here fear of A Course in…
(T-13.II.6:3)「自我にとっては、自我こそが神であり、無罪性は、殺害を完全に正当化する最後の罪悪として解釈されなければならない。このコースとの関連においてあなたが経験するかもしれない恐れはみな、究極的にはこの解釈に由来しているということを、あなたはまだ理解していない…」より:
・これは具体的にはヘレンのコースに対する恐れを指しているが、明らかに全ての学習者にも当てはまる。コースは私たちの無罪性について教えている:愛からの分離は決して起こらなかった、だから「私たちが自分だと思っている個人としての自己、これを読んでいるわたし」といったものは作り物だ、と。
・私たちはコースの書かれ方 (言葉遣いがキリスト教的すぎる / 三人称が性差別的すぎる etc.)を理由にコースを敬遠するのではない。私たちがコースを敬遠するのは書かれている内容によるものであり、形態ではない。
・コースは「私たち(個人)は存在せず、私たちには罪がない」と言っている。これまで見てきたように、罪悪感がなければ自我はなく、私たち(個人)もない。だから、私たちが自分たちを特別な個人として認識している限り、私たちは罪悪が救済だと信じざるを得ない。私たちはこの罪悪感を抑圧し、それを投影というかたちで他者に見て攻撃する。
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もし本当に罪悪感がなければ…
第一弾はこんな感じで、印象に残ったのはNo.12395でした。「私たちが怒ったり動揺したりするのは、必ず自己嫌悪を隠そうとしてるから。その罪悪感がなければ決して誰にも攻撃的な考えを抱かないはず」というのは、自分ごととして受け取るとなかなかズッシリきます。
結局のところ、ニートで誰にも会わなくなった結果「ストーリー的に分かりやすい軋轢(クロトワ課長が理不尽でムキー!みたいな)」は明らかに減ったけど、それで心が平和になった訳では全然なくて。やっぱり家族の振る舞いが気に入らないときや、ニュース報道などに触れるたびに、心の中で朝から晩まで裁きまくっている自分がいます。
これって要するに、心の中にそれだけの自己嫌悪/罪悪感をもってて、それを投影せずにいられないという事なんだなと。もしその罪悪感がすっかり癒やされているならば、それらの出来事を”気に入らない”とすら感じることはないはず。。。
そう思うと逆に「最初から誰にも攻撃的な考えを抱かない」という状態はどんな感じなんだろう?と妄想したりしてました。(あれもこれも気にならない訳だから、きっとすごい楽なんだろうな〜)
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / 奇跡講座 下巻 ワークブック・マニュアル (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
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