ゲイリー達のオンライン講座(7)
12/9。
日本時間で12/7に開催されたゲイリー達の講座(7)ですが、なんと今回は彼らのWebカメラが壊れた関係で、音声のみの配信となりました。「今晩の僕は超カッコイイのに、皆さんにお見せできなくて残念だよ」だそうです。笑
今回分:https://www.crowdcast.io/e/christmas-as-the-end-of-sacrifice
講座の本編
12月のテーマは”Christmas as the End of Sacrifice (T-15.XI)”で、クリスマスにちなんだ話題が中心でした。今回はテキスト等の読み上げが多かったです。中でもシンディが冒頭で朗読したヘレンの詩が印象に残ってて(=私には難解すぎてw)、後で調べたら The Gifts of Godに載ってる作品でした。その件はまた後日。。。
[シンディ]
(0:35) 私たちが(誰かを)赦す必要があると思うのは、そこに罪に対する信念があり、それを投影しているということでもあります。従って、赦しとは、「赦すことなど何もない」と学ぶための手段です。赦しは常に、それを差し出す者に恩恵を与えます。そしていつか「あら!そもそも赦しなんて必要なかったわ!」と理解する日が来ます。ですがそこに到達するまでの間は、私たちは赦しというツールを使う必要があるのです。
(0:38) 「犠牲」は全的なものです。つまり誰かに成すことは自分に成すのと同じという意味で全的なのです。自分を無罪にするために誰かを犠牲にするとき(あるいはその逆でも)、私たちは常に我々自身を傷つけています。だから、「誰にも犠牲を要求しないことにより、私たちも平和の祝賀に加わろう。そうすることで、あなたは私があなたに差し出している愛を、私に差し出すことになるからである。私たちから何も奪われていないと知覚すること以上に、喜ばしいことがあるだろうか。(T-15.XI.8:2-4)」
これがクリスマスのメッセージです!愛は誰も除外することはありません。それがどんなに極悪な人であるかに関係なく、たった一人でも愛から締め出されることはありません。
[ゲイリー]
(0:54) 僕の教師、アーテンとパーサ(A&P)によれば「500年後には、コースはJが神の言葉を語ったものとして世界中で認知されることになる」とのことだが、同時に「コースは正しく理解されなければ、役に立たない」とも言っていた。コースは人々の時間を節約するためのものだ。アーテンやパーサ、ケン・ワプニック博士などコースを明確に説く教師は、それを学ぶ人々に時間を節約させる。なぜなら、みんなコースが何を意味しているのかを知れば、それを実践するのがもっと容易になるから。コースを知的に理解するだけでは足りないんだ。「その教えを生きる」必要がある。自分が語る言葉通りの存在にならなければならない。
だから僕は、ケンが僕とシンディをディナーに誘ってくれた時のことを話すのが好きなんだ。ケンはその日も一日中、何百人を相手に講義してきた後だというのに、そんな素振りは微塵も感じさせずに、まるでウェイターのように僕たちをもてなしてくれた。やあ、調子はどうですか?ドリンクはどう?食事の追加は?…などなど、自分のことではなく、相手のことが全てだった。なぜならケンの行為は愛から来ていたからだ。彼に利己的なところは一切無かった。僕はその事に気づき、コースを思い出した:「愛だけを教えなさい。それがあなたの本性だからである(T-6.I.13:2)」。
ジュディ・スカッチもそんな人だった。彼女の他にも、財団(FIP)を運営する人々はみんなそんな感じだった。彼らと居ると、ただ愛だけを感じるんだ。そのことは、コースが最適な人々の手で守られている事を僕に感じさせた。だから、今から500回目のクリスマスを迎える頃にも、コースは今と変わらぬ形で残るだろう。財団(FIP、FACIM)の初期の任務は達成された。それは決して簡単な事ではなかっただろうが、彼らはコースが世界中で読まれるように筋道をつけてくれた。だからもう、コースが消えてしまうこともないし、損なわれることもないだろう。
Q&A
今回はちょっと駆け足で13問のQ&Aがありました。個人的には最後の3問が興味深かったかも。。。
Q11. 歴史家はモーゼを架空の人物と見ているけど、アーテンとパーサ(以下A&P)は実在の人物だと示唆しています。A&Pからモーゼについて何か話しはありましたか?モーゼも非二元論を教えていたんですか?
ゲイリー:A&Pによると、モーゼは実在したらしい。聖書の話は実際にあった話をもとにふくらませて作られたのだろう。モーゼの十戒などは非二元論ではなく、世界がリアルであるとした上で規律を重んじる目的があったように思う。それまでの秩序のない世界において、法がもたらされることは重要だったはずだ。また、それまで多神教的な文化が主流だった時代にあって、一神教へと至る道のり(→ひいては神の全一性へと繋がる)としては、正しい道への一歩だったというのは確実に言えると思う。
Q12. Jは、コミュニケーションは心のものだと言ったそうですね。私は母を亡くしましたが、それは今でも母と心の繋がりがあるということですか?母の死と向き合うのに本当に悪戦苦闘しています。どうすればこの分離の感覚から癒されることができますか?
ゲイリー:僕の両親が移行を果たしてからずいぶん経つが、今でも彼らがいると想定しながら心で両親に語りかけている。しばらく時間が経つと、別の形のコミュニケーションに慣れてくるものだ。でも、あなたが悪戦苦闘している気持ちはよく分かる。それは今まで亡くなった人の「形態」のほうに慣れていたからだ。そして突然に彼らがいなくなると、次のことが起こる。①神からの分離を再演することになる。②時間が経つと(何年もかかるかも知れないが)、想念で語りかけるようになり、それについて返答があるという感覚を掴めるようになる。肉体がなくなってもコミュニケーションは終わらない。それはより高い次元のコミュニケーションなので、確立には時間がかかる。練習も必要だ。
シンディ:愛する人を亡くして喪失感をもつのはとてもノーマルなプロセスです。あなたが感じるとおりに感じてください。その感情を抑圧しないでください。(亡くなった人が)どんな人であっても等しくアクセスすることは可能です。たとえJであってもアクセス可能なのですから。
ゲイリー:そういえば、誰かが、亡くなったケン・ワプニックやビル・セットフォードにもアクセス可能かと質問してた事があるけど、答えはイエスだ。ただし、彼らのように悟りに達した人は、Jと同じように「聖霊」としてアクセス可能になる。悟りに達するということは、聖霊とひとつであるという事だから。つまり、今やコミュニケーションにおいて、Jもケンもビルも違いはない。
Q13. 4冊目の本(Jesus & Buddha本)で、一日の始まりに聖霊に全ての考えと行動を主導してもらうと書いてありましたが、それはどういうことですか?
ゲイリー:聖霊は僕たちの表面意識だけでなく無意識も導くことを忘れてはいけない。考えや行動について導かれていながら、意識の上では気づかないということもある。例えば右折するはずが、気がついたら左折していて、自分でもなぜそうしたか分からない…といった時など。それは聖霊によって良い意味で駆り立てられたということだ。聖霊はあなたのかすかな招きにも応じる。だからあなたが心に聖霊を招き入れ、主導してくれるよう頼めば、聖霊は応えてくれる。あなたがその事に気付くとは限らないが、それは常に起こっているんだ。
***** ***** *****
ゲイリー達の講座も7回目ですけど、毎回新鮮に感じる部分があるという事は、いかに聞いたそばから忘れまくっているかという事ですね。。。 (^^;)
やっとワークブック終わったので、またテキストを読み直したりしてるけど、テキストも内容すっかり忘れてて「あれっ、こんな事書いてあったっけ?」みたいになります。自分が思ってる以上に、何度も何度も繰り返し教わる必要がありそうです。
コメント