ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20210425(x2)

読書会 JTT-20章(2) 洞窟の囚人たち

(続き)

そんな4月もなんだか忙しい日々が続いてまして。
わたくし日々のティータイムはJTT本に目を通してますのオホホみたいな優雅なことは言ってられない今日このごろです。とはいえ忙しい理由がぜんぶ自己都合なので充実はしてるのですが、さすがに寝不足続きはよくないので優先順位をつける必要がでてきました。
今のところ、いちばん不要不急の自分プロジェクトがJTT本なので、このあと6月ごろまで読書&要約を一時休止しようと思います。無念。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 20 — The Vision of Holiness (2)

テキスト20章にはよく引用される有名な箇所がいくつかあって、JTT本に「あ、これどっかで見た!」という話題を見つけるとちょっと嬉しくなるのでした。その中から個人的なお気に入りをピックアップしてみます。

プラトンの洞窟のたとえ

テキスト20章には有名なプラトンの洞窟のたとえ話がチラッと登場します。それも、前回と同じ「調整としての罪(T-20.III)」のセクションに含まれておりまして。こんな感じです:

「何年もの間、重い鎖につながれてきた囚人たちは、飢えてやつれ果て、衰弱して疲れきっており、あまりに長い間、闇の中で目を伏せてきたために、彼らの目は光を覚えていない。このような囚人たちは、自由になった瞬間に喜んで躍り上がりはしない。彼らが自由とは何かを理解するまでに、しばらく時間がかかる。(T-20.III.9:1-2)」

プラトンの洞窟の比喩は有名ですし、Wikipediaに挿絵つきで概要がありますが(こちら)、そこに載ってないオチまで含めて簡単に言うとこんな感じかと:

生まれたときから洞窟で暮らしている囚人たちがいて、彼らは手足も首も縛られており洞窟の奥の壁しか見ることができません。洞窟の入り口側には光源があり、そこを横切る様々な人や物の影が洞窟の奥の壁に映ります。そこで囚人たちは、この影が現実だと信じて生きています。ところがあるとき、囚人のひとりが縛りを解かれて背後の光を見ました。彼はその光のほうが現実であったと知り、それまで奥の壁で見ていたものは影だったと気づきます。そしてこのことを他の囚人たちに知らせようと洞窟に戻ります。しかし囚人たちは誰も本気にしないばかりか、光を見せようとする者は誰であろうと殺して阻止しようとするのでした。

これについての博士のコメントが興味深かったです。
まずこの話に出てくる牢獄(洞窟)というのは「幻想と影の世界に生きる」という、私たちの心の誤った決断による牢獄を指しているのだそうです。また、私たちは聖霊の助けによって解放されても喜んで飛び跳ねたりはしないといいます。なぜなら、私たちはいまだに “特別な自己” の闇を大事にしているから。というかむしろ、この特別性を保護するために、憎しみと死の影の世界に残ることを選ぶわけです。(そのへんが狂気なんですね)。

これが、私たちが自由(真理)を差し出されても、それを受け取るのをためらう理由だといいます。実際、私たちの真理に対する恐れは多大なもので、プラトンの話に出てくる囚人たちのように、メッセンジャーを殺してしまう(またはメッセージを葬ってしまう)のだとか。
そういえば昔、似たようないきさつで十字架にかけられてしまったお方もいましたね。でも、私たちがそうせずにいられないのは、ひとえに「特別な自己」を保護し続けるためなのだそうです。真理のなかでは個別性は消えてしまいますから、それだけは断固阻止!ということなのでしょう。。。

テキストにこのたとえ話が登場するのは、「私たちの恐れというのは、真理に対する自我の抵抗である」ということを見せようとしてくれているからなんだそうです。たしかに、コースの伝えようとしていることを分かりやすく描写した比喩だと思います。プラトン先生すごい。

世界が幻覚だとしたら

もうひとつは、もし世界が幻覚だと認識したら?自分が作ったものだったと知ったら?という有名な問いかけで、20章の終わりのほうにあります。

「もしあなたが、この世界は一つの幻覚だと認識したならどうだろうか。自分自身がそれを作り上げたのだということを真に理解したとしたら、どうだろうか。そして、その中を歩き回るように見える者たちが、罪を犯し、死に、攻撃し、殺害し、自らを破壊するとしても、彼らのすべてが実在していないと悟ったなら、どうだろうか。(T-20.VIII.7:3-5)」
(ちなみに原文は “What if you recognized this world is an hallucination? What if you really understood you made it up?” となってて、なかなかインパクトのある語調だなあと思うのです)

たぶん、一瞥体験された方とかは、このことをよくご存知なんだろうなと思います。
私なんかだと、こんなふうに世界が幻覚だと言われても、理屈では「そうかも…」と思えたとしても、体感的に「分かったーー!」とはならないのが残念ではありますが。でも、それはそれで旅路のスタート地点にいる身分としてはごく妥当な状態なんでしょう。
そしたら博士が、なぜ私のような凡人がこれを腑落ちするのが難しいのかを説明してくれてました。

ここに出てくる「幻覚 (hallucination)」というのは精神医学の言葉で、視覚的、聴覚的、嗅覚的、味覚的、触覚的なまぼろし(そこにはないものを見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、感じたりする)を体験する患者を精神病と診断するそうです。イエスはその幻覚という言葉を使って「この世界がそのような知覚による作り物であると本当に知ったらどうなるか検討してみなさい」と言ってくれてるわけですが、言うは易く行うは難し。。。

なぜ世界は幻覚であると認識することが難しいのか?
博士いわく、問題は「私たちが作り上げたものの中には “私たち自身” と呼んでいる人間も含まれていること」だといいます。要するに、私たち自身も幻覚だということです。
って、ふおおおお!いまなんつった!?

そこでちょっと冷静に考えなおしてみたのです。
確かにテキストをさらっと読むだけだと「そうか世界は幻覚なのか。じゃあ私の嫌いな奴も惨めな出来事も実はみんな存在しないんだな、ヨッシャヨッシャ」という心地よい否認モードに入れる気はします。だけどよく振り返ってみると、自分がそう考えているとき、”そうそう、世界は幻想なんだってよ。でも私だけは実在してるけどね、フフン♪” という棚上げ視点から見てる気がする。

博士、まさにそこんとこにチョップを入れてきたわけですね。Σ(゚Д゚)
せっせと文章を書いている私という自己、そして博士の書いたものを読む自己、奇跡講座を読んでその原理を実践しようとしている世界中の自己。。。私自身を含めたこれら全てが、作りものであり、幻覚だということです。そして、この事実は自我が決して私たちに知ってほしくないことだといいます。

なぜなら世界とは、まさにその事に気づかせないために周到に用意された「真理に対する防衛システム」だから。似たような話しが前回の「調整としての罪」の話にも出てきましたけど、ものすごい労力をかけて築いてきたこの仕組み、そう簡単に手放したくはないですよね。。。

なんかもう、これ以上考えるのイヤになってきたので寝ちゃおうかな。(抵抗)

*****

さてさて。。。今回、なんとかJTT本20章(その2)のメモをしてみましたが、優先度の高い自分プロジェクトが複数はしってる最中でして、落ち着いてJTT本に取組むのが厳しい感じです。うーん、せっかく20章まで到達したので月イチペースで進めたかったんだけどなー…。

でも、あれもこれもと無理すると煮詰まっちゃうし、途中でヤル気がぶっ壊れて読むこと自体を完全放棄しちゃうよりは、一時休止して落ち着いてから再開したほうが建設的かなぁ、と思っております。

まあ、更新ペースもすこし落として、ゆるゆると続けていきたいですね。
というわけで、目標としては6月以降にJTT本21章いけたらいいなと思ってます!

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

コメント

  1. ”私たちの真理に対する恐れは多大なもので”

    こないだ、職場に出勤するとき ふと 妙なことを思いました。

    ”私たちはなぜ 仲良くなれないのだろう”

    敵というか、いやな人 というものは
    いろいろいます。僕は生来 びくびくしている人間なので
    シャイというか、いろんな人と じょうずにやっていけてないなあと
    思いながら 生きづらいなあと 思いながら生きています

    しかし それ なぜだろう? 変だな この不自然感
    と思ったとき

    奇妙なことに みんななかよく平和な世界
    誰も敵がいなくて みんなとなかよく のっぺりした世界を
    私が望んでない なんていう 奇妙なことに 至りつくのです

    高倉健の 戦後の混乱期の 闇市のころに 戦地から復員してきた 親分が
    地域のみなさんの ために 正義のやくざをしつつ 悪い やくざと戦う
    おはなし 任侠伝をみつつ 感動する 私たちは

    世界に善悪があって 善が勝って すかっとする話を欲しており
    そこには絶対悪 つまり殺されて消されてもしようがないばけもの(コロナみたいだわ)
    の存在がもとめられているのです。しかし ほんとは悪人のかっこうをするカルマで
    かかわってきたそやつらは神の子なのであった。しかし、
    悪に回った 連中はずっと悪であって地獄におちて 消えてしまって、しかししに来るなもう
    という
    妙に 神の御心にかなわない 平等感から 遠くはなれた ストーリー展開を
    僕らは望むのですね。 いや僕は欲してます。それを欲してないと
    全部自分を ふわんと 手ばなしたところにあるものが
     どこか つまんない 死んでる と思っているようなとこがあり
    先手を打って ずっと生きようとして 考えとか 苦しみとか 敵とか悪を
    作ろう 作ろうとしてる そういう夢をみてないと
    何もない世界に飽き飽きして 退屈するのが いやだとでも
    思っているような とこがある

    そういう説明するとながいようなことを わりと瞬間てきに
    感じたのでした ある日(長文失礼しました。) 

    • たしかに。。。!普段そこまで考えたことなかったですが、そう言われると自分のなかにも思い当たることが色々とあります。日常においても、自分の正しさを主張するために家族と対立するなどは条件反射的に行われがちだし、名作「ベン・ハー」でさえ主人公が宿敵をやっつける(悪いやつが罰せられる)筋書きにワクワクしたりするわけで、そういう善悪のパターンを当然のものと見なしてるなーと。
      ということは自分がその「白黒つけたい」パターンを欲していて、しかもいい感じで望み通りになってるということですね。あな恐ろしや。Σ(゚Д゚lll)

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