ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20201204

自我という不可能がなぜ起こったか?

11/11。

The Most Basic Question

FACIMニュースレターでまた興味深い抜粋が紹介されてました。以下のページに掲載されている最初の抜粋で、「コース学習者だけでなく、プラトン主義などの哲学者にも時代を超えて問われ続けてきた”最も基本的な質問”」というお題のやつです。Reflections on Shared Universal Truth Part2

これは早い話「そもそも自我とは、なぜどのようにして生起したのか?なぜ神の子に不可能なことが起こってしまったのか?」という、学習者なら誰もが一度は抱くであろう超ベーシックな疑問(難問?)についての解説になります。この件に関してはJACIMの方でも【質問】No.7 自我はどのようにして生起したかについての複数の質問、という簡潔なQ&Aがあるのですが、今回それがさらに深堀りされてて分かりやすかったので、補足としてメモしたいと思います。

時代を超えた問い

以下、FACIMの抜粋からの概要です。

ACIMが教えるのは「実在するものは脅かされない。実在しないものは存在しない」と序文にある通り、神だけが実在であり、それ以外のすべては幻想であり無であるという、かなり徹底した非二元論です。そのような世界の枠を超えた理論に関心を持つようになると、どこかの時点で「神以外の存在があり得ないっていうなら、一体どうして自我や世界なんてものができたんだろう?」という素朴な疑問が出てくるのはごく自然な成り行きだと思います。

今回の抜粋は The Message of A Course in Miracles という書籍からのものだそうですが、それによるとワプニック博士が妻のグロリアと共に開催してきたACIM講座やワークショップ等においてこの質問をしなかった人はいないそうです。さらに言うと、この質問自体が目新しいものでは全然なくて、長い歴史を通じてプラトン主義者の哲学者たちが問い続けてきた根源的な疑問なんだとか。そんなに歴史ある疑問だったとは。。。!

実際、博士はここでプラトン主義の流れを汲む2つのグノーシス文書の例をとりあげて、同じような問いが1世紀ごろからずっと存在していたこと、そしてそれに対する回答は与えられていない、という事を紹介していました。(興味ある方は原文を参照ください)

この問いに対するACIMの回答

面白いことに、グノーシスの古文書でも答えられていないほどの難問について、ACIMは明確な回答が与えられています。ただし、それは私たちの好奇心を満たすような答えではなく、「このような質問は、理屈の上では完璧に筋が通るものでありながら、もっともらしいまがいものに過ぎない」という斜め上をいく指摘だったりします。実際、テキストの序盤には次のような箇所があります:

「いったい心はどのようにして自我というものを作り出せたのか、と尋ねるのはもっともなことである。(T-4.II.1:1)」
「しかし、過去の観点からその問いに答えることには意味がない。なぜなら、過去は問題にならず、もし同じ誤りが現在に繰り返されているのでなかったなら、歴史は存在していないはずだからである。(T-4.II.1:3)」

実はこれは、ヘレンがコースを筆記している時に、ビルから出された質問に対する回答として与えられたものなのだそうです。これは要するに、「現在においてまさにその自我を選択し続けているというのに、どうして『自我は最初どうやって起こったんだろう』などと不思議がるのか?」という話です。つまり、その質問自体が「自我が起こったという事を前提にしている(=自我が存在すると宣言している)」というACIM的な矛盾をはらんでいるわけですね。

以下の2つは「用語の解説」序文からのもので、この質問に対してさらに妥協のない回答となっています(JACIMのQ&Aで引用されているのと同じ箇所です):

「自我は、このコースが与えない多くの答えを要求するだろう。質問の形をしているだけで答えることが不可能なものを、このコースは質問として認識しない。自我は、「どのようにして、不可能なことが起こったのか」、「不可能なことが、何に対して起こったのか」と尋ね、しかも、数多くの形で尋ねるかもしれない。だが、それには答えがない。ただ体験があるのみである。これだけを求めなさい。神学によって、あなたの歩みを遅らせてはならない。(C-in.4)」

「自我を定義して、それがどのようにして生じたのか説明してほしい求める者は、自我が実在すると思っている者でしかあり得ない。そして彼は、定義することによって、自我をそのようなものに見せかける言葉の背後に、自我の幻想性を確実に隠蔽しておこうとする。嘘を真実にするのに役立つ嘘の定義などというものはない。(C-2.2:5-3:1)」

ワプニック博士の解説

これに対するワプニック博士のコメントは次の通りで、この難問に対するかなり分かりやすい説明になっていると思います:

Restated, A Course in Miracles’ argument is that once we ask how the impossible (the ego) happened, we are really affirming that the ego did happen…
つまり、奇跡講座の論点はこういうことです。ひとたび私たちが「どのようにして不可能(自我)が起こったのか」と聞くならば、私たちは自我が本当に起こったと断言しているのであり、二元性は非二元性と共存が可能であるとか、もっとすると非二元性自体が全く存在しない、と言っていることになります。さもなくば、私たちはそのような質問を思いつくことさえないでしょう。私たちは単に(質問のようなかたちで)声明を述べているだけであり、実際には質問など全くしていないのです。

さらに、テキスト27章からも次のような引用がありました。下線部分は博士が強調した部分です。つまり、この問いは一見まともな質問のように見えるけれども、実際には質問ではなく単なる宣言に過ぎない、ということですね。

「この世界はただ二重になった質問しか問うことができない。多くの答えのある質問に答えはあり得ない。どの答えも答えにはならない。この世界は答えを求めて質問するのではなく、それ自身の見解を言い換えるためだけに質問する。この世界で問われる質問はすべて、ものの見方に他ならず、質問が問われているのではない。(T-27.IV.3:5-4:1)
… 偽(にせ)の質問に答えはない。それは質問をしている最中から、すでに答えを述べている。こうして、この世界の中で聞かれる質問はすべて、それ自体のためのプロパガンダの一形態である。肉体を証しする証人たちが肉体自体の内側から生じる感覚にすぎないのと同様に、この世界の質問に対する答えは、問われている質問の中に含まれている。答えが質問を表している場合には、答えは何も新しいものをもたらさず、学ばれたものは何もない。(T-27.IV.5:1-5)」

そして博士は結びで次のように述べています。これが、この問いに対して私たちが “知的に納得できる” 回答が得られないことに対する最もロジカルな理由だと思います。「この問いに真面目に答えようとする時点で、コースが教える全てを否定することになってしまう」というパラドックスのような解になっているのが興味深いです。

In other words, once one has had an experience of God’s non-dualistic Love, the inherently dualistic question—ultimately borne of fear or ignorance—could never be asked…
言い換えるなら、ひとたび神の非二元的な愛を体験したならば、二元性が内在する質問(恐怖や無関心から生まれたもの)は、決して問われることはありません。これが上記の、ただ真理の体験のみを追求する、という話が意味していることであり、神学的な探求によって真のゴールの達成を遅らせることがないようにという事なのです。
したがって、どのようにして分離の想念が生起したかという問題は、それ自体が解決不能であり理解を超えています;自我にはそれ自身を超えた実相を理解することなど出来ないからです。そのようにして私たちは、非二元ではないどのような形而上学的枠組みによっても、この偽の問題に対して知的に満足できる答えを提示することはできない、という事が分かります:それに回答しようと試みることでさえも、存在しない自我に実在性をを与えることになるのです。

火事のたとえ

今回の抜粋はこれでおしまいなんですが、最後の最後で博士が紹介していた次の例え話、すごく分かりやすかったです。なんかこれ、仏教(法華経)の三車火宅の譬えにも通じるところがあるような気がするのは単なる妄想ですかね。。。

One of the best expressions I know of how to approach this pseudo-question comes from an Eastern source…
この偽の質問に対してどうアプローチするかについて、私が知るベストな表現は、東洋の師であるキルパル・シン(Kirpal Singh)の教えです:「火事になった建物に閉じ込められたとき、あなたはどのようにして火が出たのかをいちいち気にしたりはしないだろう。あなたはただ可能なかぎり速やかに逃げるだけだ」
奇跡講座の主張のひとつが学習者の時間を節約することである以上、私たちの最も有名な質問に対しては、これが最も実用的で役立つレスポンスであると思われます。

。。。という感じで、この歴史的な難問に対し、ACIMの観点からは終止符が打たれた形になるかと思います。すごいなと思ったのは、この問答は私たちの好奇心をうまく利用しながらも、いつのまにかACIMの「形而上学的な妥協のなさ」に迫らせるという重要な側面を併せ持っていることです。

私自身は脳みそに豆腐が詰まってるタイプなので、この手の難問に挑戦しようというガッツは乏しいんですが、他の人から全く同じ質問を受けたことがあって、その時はもちろん答えられませんでした。あはははは。。。(゚∀゚)

もし次に同じこと聞かれたら、この話をそのままリピートすることにしよw

コメント

    • 山本さん、いつもありがとうございます!
      毒矢のたとえはキルパル・シンの話と繋がるところがあって興味深いですね。仏教もすごく大切なことを教えてくれていると感じる今日このごろです。

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