ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20201006

コースで言う慰めとは何か

9/25。

今朝届いたFACIMのニュースレターがちょっと気になったので書いてみます。タイトルはFinding Comfortとなっていて、Entering God’s Presenceという博士の講義CDの一部を抜粋したものでした。残念ながら書き起こしが載ってたのはメールのみ。Webページでは公開されていません。ただ、音声は以下に公開されているので誰でも聞くことができます:

Finding Comfort (約3分)
https://facim.org/monthly-topics/finding-comfort/

内容的には、ワークブックの最後にある「私も決してあなたを慰めもなく放っておくことはしない(W-pII.Ep.6:8)」で言われている「慰め」とは何か、ということの説明となっています。ここは原文では “I will never leave you comfortless.” となっていて、comfort=慰めとして訳されているところです。

実際には、comfortという言葉は日常ではけっこう広い意味で使われていて、快適さとか、心地よさとか、癒しといった意味合いで使われることが多かったりします。なのでこの抜粋では、博士がcomfortにまつわる様々な意味合いを使って説明してくれているのも非常に分かりやすいです。

FINDING COMFORT (慰めを見いだす)

生徒の質問に対するケネスの回答:

I think the first part of your question, or the first part of what you said…
あなたの質問の前半は、「”神は愛である”という概念があなた個人にとって何の意味も持たない」という事であろうと思います。確かにそれは、知的には素敵な概念です。しかし、私たちがその意味(神の愛の真の意味)を理解できる方法は無い、ということについてはコースも同意するところでしょう。

私たちが「神は愛である」と言うとき、私たちは人間のことを思い浮かべ、私たちそれぞれの愛についての見解を思うことでしょう。そうするとコースの焦点は決して神とはならず、真理ともならず、常に自我にフォーカスすることになります。ですから、私たちは(神の愛ではなく)むしろ自我について自覚しているのです。

それはつまり、私たちが怒ったり、不安になったり、恐れたり、特別な必要性に耽ったり — といった事(自我)が問題だということです。ですからあなたが助けを求めるべきは、それらの問題を違った見方で見る、ということになります。

And again, ultimately then, it’s really praying to our decision maker to…
それは究極的には「決断の主体」が自我を見つめるための祈り、ということです。私たちに罪悪感を感じさせたり恐れたりさせる自我の目を通してではなく、「そこには何も存在しない」と言う赦しの目を通じて見るということ。繰り返しますが、聖霊やイエスに助けを求めるという考えは、実際には私たちの自己に助けを求めるものです — ただしそれは、私たちが全く知らない自己ですが。

ワークブックの終わりにある、非常に美しい一節を読んでみましょう。そしてこの箇所は、コースの文脈を理解していない人にとっては、大変キリスト教的であり既存のイエス像のように聞こえるものです。しかし、私たちがこれまで話してきた文脈に照らして読むと、違った読み方になります。これがワークブックの最後です:

(W-pII.Ep.6) 私たちは自分の道を聖霊に託し、「アーメン」と言う。平安の内に聖霊の道を歩み続け、すべ てを聖霊にゆだねる。自分たちの為すことすべてに聖霊の意志を尋ねながら、確信を抱き聖霊の答えを待つ。聖霊は神の子を愛しており、私たちもそのように神の子を愛したいと思っている。どのようにすれば聖霊のまなざしを通して神の子を見て、聖霊が愛する通りに彼を愛することができるのかを、聖霊が私たちに教えてくれる。あなたはひとりで 歩いているのではない。神の天使たちが見守っている。神の愛があなたを包んでいる。そして、安心していなさい。 私も決してあなたを慰めもなく放っておくことはしない。

These are very beautiful and very moving lines. But the way Jesus doesn’t…
これは非常に美しくて感動的な一節です。しかしイエスが「私たちを慰めもなく放っておくことはしない」というとき、彼の文脈において私たちが求めている”慰め(comfort)”とは「私たちがいまだかつて見たり感じたり体験した事の全ては夢にすぎない」ということです。そしてその夢は、実相には何の影響も与えません。それが「慰め」なのです。

それは親が子供を居心地よく世話してあげるような慰め(comfort)ではありません。イエスが、私たちの気分が良くするために、おしめのウンチをぜんぶ取り除いてくれて快適になる(comforted)というものではないのです。真の慰め(comfort)とは、「私たちが信じてきたあらゆる事は間違っていた」と思い出すことにあります。

You know, and to cite one of the workbook lessons, “Beyond this world…
ご存知のように、ワークブックには「(L129)この世界を超えたところに、私の望む世界がある」というレッスンがあります。そして私が望む世界とは、イエスの愛によって象徴される世界です。それが慰めです:つまりこの世で感じてきたあらゆること、この世のあらゆる成り立ちといったもの(いわゆる誤った思考体系) — が間違いだということ。

奇跡は、私たちが夢を見ており、その内容は本当ではないと思い出させてくれます。それが慰めです。慰めとは、私たちが世界を何とかしようと(fix)する必要がないということです。たとえ肉体を一時的に修復(fix)することができたとしても、最終的には肉体は死にます。ですから私たちが修正すべきなのは、「自分は肉体である」「夢は実在する」という心の信念なのです。それこそが希望です。

*****

これは博士の講義の一部分を抜粋したものなので、冒頭の「神の愛」とは何か、というところから始まり、コースで言う「慰め」とは何か、という話に発展していってます。

いずれの場合も共通しているのは、私たちがこの世で思い描くような「神(God)」とか「愛(Love)」とか「慰め(comfort)」とかの概念を使ってコースを理解しようとし続けるかぎり、結局は自我にフォーカスし続けるのと同じことになってしまう、というお話で、う〜ん、それってすごい自覚しづらいトラップじゃね?と思ったり…

もちろん博士だって、それが自覚しづらいトラップだと知ってるこそ、わざわざこうして詳しく説明をしているのでしょう。つまり、この世的な概念を引きずったままコースを理解しようとすれば、ワークブックの締めくくりですら既存のキリスト教の聖句の延長のような感じで、「分かったつもり(日常的な解釈の範囲内で)」になれてしまうという。
#上記の引用箇所、改めて見るとちょっと衝撃でした。確かにアーメンとか言ってるし、教会の礼拝で牧師さんが読み上げても違和感ない仕上がりかも…!

でも、コースが本当に伝えようとしていることは「私たちがこの世で学んだあらゆることが誤っていた」という認識であって、それこそが私たちが本当に求めている慰めである、という事が繰り返されてました。そのようなコース目線で同じワークブックの締めくくりをもう一度読み返してみると、「神」も「愛」も「慰め」も全然違う意味合いに響いてくるわけで、博士の教え方は相変わらず巧みですね。。。

※ちなみに、後半の例えが割とおちゃめで、イエスが “booboo” を取り除いてくれるという表現でした。これは幼児語で「イタイイタイ」または「ウンチ」といった意味があり、この文脈ではどちらを採用しても意味が通ります。今回は、読んだ時なんとなく「おしめのウンチ」のイメージが思い浮かんだのでそうしました。(*゚∀゚*) 

原文コレ:It’s not that he comforts the way a parent would comfort a child or that we’re comforted because he’ll take away all the booboos and make us feel better.

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です