ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200819(x3)

FACIM読書会 8月 JTT Ch.12 (その2)

(つづき)

JTT本12章の続きです。

今回のオンライン会では簡易シェア(時短バージョン)もやってみました。印象に残った箇所を各自ひとつだけ紹介するような感じです。12章は個人的に好きな箇所がたくさんあって、全部やってたらマジで日が暮れると思ったので…。※お店に集まってやってた頃は、実際に日が暮れるまでやってたしね(^^;)

ちなみに今回、私からシェアさせてもらった箇所は12章後半だったので、それは次の投稿で紹介したいと思います。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 12 — The Holy Spirit’s Curriculum p102〜

The Judgment of the Holy Spirit p107 (No.11710)

No.11719/p107  Making the error real requires tremendous effort, for we have to deny what is true and…
・誤りを実在させるのには途方もない努力が必要だ。そうするには、私たちは真実を否定せねばならず、真実でないものを受け入れねばならないから。だが、神の愛を受け入れるのには何の努力も必要ない。なぜならその愛はただそこに存在しているから。必要なのはそれが実在であることを認識したいという意欲だけ。
・一方、自我に対しては、私たちは努力しなければならない。なぜなら私たちはまず最初に幻想を作り、それを信じてしまったから。従って、このコースは「何もしない」ための教えである。つまり、存在しない問題(自我の思考体系)に対して何もしないという意味。
・ただしそれは、私たちが肉体レベルで何もしないという意味ではない。だが単に、問題を解決するために状況に反応しないということ — その問題は存在しないのだから。

No.11727/p107-108  Recall this important theme: perception is interpretation. Our responses to each other are never…
・「知覚とは解釈である」という重要なテーマを思い出すこと。私たちが互いに応答するときは、決して行われた事や言われた事に基づいて応答しているのではなく、つねに「心による解釈」に基づいている。その解釈が誤った心から来ていれば、私たちは自分たちに対する攻撃や、それに対する反撃を正当化するものしか知覚できない。
・この世界において、私たちが行動面で応答しなければならない事は頻繁にある。そこで私たちが何らかの応答をする前に、いったん自我を脇に置いて、「どうか正しい心による親切さと愛によって応答できますように」とイエスに助けを求めること。

No.11832/p111  That “fear and love are the only emotions” is an idea to be stated in almost the same form…
(T-12.I.9:5-6)「恐れと愛だけが、あなたが抱くことのできる感情である。そのうちの一つは否定から作り出されたので、偽りである…」より:
・この「唯一の感情は恐れと愛だけ」というのは次章(T-13.V)とほぼ同じ考えを表している。
・もし恐れが愛の否定であるなら、愛のほうが先に存在していなければならない。これはつまり、恐れの存在意義とは「愛を隠し続ける防衛」にしかないことを意味する。

No.11878/p112  Having us realize that our brothers are ourselves becomes the thrust of the Course…
・私たちが、兄弟とは自分自身であると認識することがコースの原動力になる。誰かを、私たちとは別のものだ(=向こうは邪悪で自分たちは無垢だ)と見るとき、それは自我が現実を都合よく解釈したことに基づく誤解である。
・分離は実在するという信念は「どちらか1つだけ (one or the other)」の原理に繋がる。誰かは善人で、誰かは悪人だと。
・この狂気への回答こそが聖霊の訂正「一緒か、さもなくば無か (together, or not at all)」である。私たちはみな、全員が善であるか全員が悪であるかのどちらか。なぜなら、神の子はひとつだから。

No.11889/p112  In content, sickness is no different from attack; the latter says our enemy is another person…
・内容においては、病気とは攻撃と何の違いもない。後者は「他者が敵だ」と言っていて、病気は「病原体や壊れた臓器が敵だ」と言っている。
・私たちは両方のケースで誤解している。病原体や特定の臓器を私たちから分離しており、私たちの肉体的な健康を攻撃する力があるとみなす事は、邪悪な敵に私たちを傷つける力があり平安を奪うことが出来ると言ってるのと同じ。
・言うまでもなく、そんな事ができるのは肉体ではなく心しかない。より正気な者が、この赦しという救済(癒し)を他者に施す必要がある。

Forgiveness: Not Making the Error Real p113 (No.11899)

No.11927/p113  To repeat, there is nothing wrong with having preferences, but when we believe our…
・繰り返すが、好み(嗜好)を持つ事は全く問題ない。しかし、その特別な嗜好が満たされなければ大変なことになる、と信じるとき、私たちは聖霊ではなく自我を救済者に選んでいる。
・注意すべきはつねに、そこに固執があるかどうか。何かが私たちの望み通りになっていなければ駄目だと主張するとか、他者のやり方が自分のやり方と異なるからといって「私はそんなことしない!」とか。
・従って、自分たちが腹を立てたり、相手と同じ勢いで固執するとき、私たちは狂気を分かち合っている。私たちはそういうことをしているのだ、と認識する事は助けになる。「もちろん私は狂ってる、あなたも狂ってる、私たちはみんな狂っている」と言えるように。
・実際、私たちが自我の狂気を分かち合っていることを受け入れなければ、私たちがキリストの正気を分かち合っている事に気がつく事はできない。この狂気を見出すのに効果的な方法は、誰かと時間や空間を共にする事で、自分の思い通りにならないとき私たちがどれだけ腹を立てるかを観察すればいい。

*****

病気と攻撃の関係性

ここでは、No.11889の「内容においては、病気とは攻撃と何の違いもない」の箇所が分かりやすかったです。だいたいワークブックをやっている頃はまんまと病気で寝込んでたわけですが、病気が防衛だとか攻撃だとか言われても「いやいや、こっちは寝込んでてマジ動けないし…そんな真理と戦えるほど勇ましい状態じゃないよ?」的なレベルの混同がありました(゚∀゚)

そうじゃなくて「自分はその病気についてどのような見方をしているか?」という事だったんですね。私の場合それは “癌化した臓器には自分の肉体的な健康を攻撃する力がある” という見方であって、それは “強盗には私を傷つけ平安を奪う力がある” という見方と内容において何の違いもない、という解説でした。わかりやすー。

こういう解説、病気で寝込んでるときにこそ読みたかったな。。。とか思うんですけど、それが自分の選択だと受け止める準備が出来ていなかったら、やっぱり既読スルーしちゃってた可能性はあるな。。。

ちなみに博士は、「病気=攻撃」という見方はACIM違反だから悔い改めよ!とは一言もいってなくて、そのことで「病気は自分のせいだ、自分が悪いんだ」などと自分を責めたりするほうがもっとNGだと言ってたのを思い出しました(メアリーさんの件)。

むしろ、「病気=自分自身の救済を求める呼び声」という聖霊の見方ありますよ、そういう見方を望んでみてはどうですか?と、いざなってくれる印象です。
やさしい。。。

というわけで、次回は Chapter 12 (その3) に続きます!12章ラスト!

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です