ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200819(x3)

FACIM読書会 8月 JTT Ch.12 (その1)

8/8。

引き続きオンラインで開催している読書会ですが、このたびメンバーの1人に大きなライフイベント的決断があったと知って、一同大びっくり!でした。そのお陰もあって、読書会は以前よりちょっと開催しやすくなったかな?

ちょうど東京の新型コロナ感染者数が過去最高を更新し続けている頃でもあり、相変わらずトベ家の都合でオンライン開催です。でも、オンラインのいいところは、またもやテディさんがオブザーバーで参加してくれたことかな〜(^^)

なんか12章の要約が9000字近くなってたので、久々に3分割します。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 12 — The Holy Spirit’s Curriculum p93 (No.11222)

Introduction: The Ego’s Strategy p93 (No.11223)

No.11319/p95  It helps us understand that the world’s purpose is to have a place where we seek for love but…
・世界の目的とは「愛を探すことができるが、決して見つけることのできない」場所をもつためだ、と理解することは助けになる。
・さらに言うと世界は、私たちの間違いの本当の源である「間違った場所を探し続けること」を覆い隠してしまうので、世界がうまくいかない理由も見誤ってしまうことになる。

Mind – World: Projection Makes Perception p96 (No.11335)

No.11340/p96  When we identify with the ego we feel its scarcity, the absence of God’s Love. Through projection…
・私たちが自我と同一化するとき、私たちはその欠乏(神の愛の欠如)を感じる。私たちは投影を通して見ているために、欠乏の知覚が自分たちの決断から来たのではないと信じている。つまり「欠乏=誰かが私たちが正当な権利を有するものを奪ったせい」ということ。
・欠乏は剥奪に繋がる:「私たちが平安でないのは、誰かがそれを奪ったからだ」という考えが、私たちの反撃を正当化する。そうして私たちのアイデンティーを肉体と世界(攻撃と防衛が必要とされる場所)に繋ぎ止める。

No.11369/p97  The ego convinces us to get rid of our guilt through projection, but this only ensures that it remain…
・自我は私たちに「投影によって罪悪感を取り除くように」と納得させる。しかしその方法は罪悪感を存続させ、それを不変のまま隠してしまう。それが自我の密かな望み。なぜなら罪悪感は「分離の罪は実在する」という幻想を保持するから。
・内側で見られていないものを訂正することは出来ない。だから自我は、私たちの注意を「外側の不正を訂正すること」に釘付けにするが、そうしている間にも「内側の不正」は訂正を免れて保護され続ける。

No.11440/p99  Again, we have only two choices: the ego or God; projecting self-hate and fear, or extending love and…
(T-12.VII.7:1)「すでに述べた通り、あなたが何を投影または延長するかは、あなた次第である。しかし、あなたはどちらか一方を行わずにはいられない。それが…」より:
・ここでも私たちには2つの選択肢がある:自我か神か、自己憎悪と恐れを投影するか、愛と赦しを延長するか。私たちが心の中で行う選択によって「どのように世界を知覚するか」が決定されるのであって、世界で何が起こるかによってではない。

No.11454/p99  If we wish to know which teacher our minds have chosen, we need only look at how we perceive the…
・もし私たちの心がどちらの教師を選んでいるかを知りたければ、自分たちがどのように世界を知覚しているかを見るだけでいい。これは客観的に見るという意味ではない;そもそも知覚=解釈である以上「客観性」など存在しない。
・私たちに見えるのは、罰せられ報復されるべき邪悪な罪だろうか、それとも怯えながら愛を求める呼び声だろうか?私たちが見るものは、私たちの心が選んだ教師によって決定されるのだ。

No.11462/p100  We are all prisoners here, except we are also the jailers for we hold the key to our liberation…
・ここでは私たちはみな囚人である。それと同時に私たちは看守でもあり、解放に必要な鍵を握っている。だから自我は、私たちが自由の扉を開くための心の鍵を決して使うことのないように、その鍵の在り処を忘れさせてしまった。
・私たちは「その鍵は肉体にあるが他者に盗られた」と考えている。そして私たちは他者の肉体にフォーカスし、争ったり殺したりすることで自分たちの無罪性の鍵が見つかると考えている。
・一方で、その鍵は心の決断の主体に残されたままになっている。それが、私たちを投獄するか解放するか選ぶことのできる「力」の在り処だ。

Looking: From Childhood to Adulthood p102 (No.11553)

No.11556/p102  The practice of A Course in Miracles is built on this central principle: our task is not to…
・コースの実践はこの中心的な原則の上に構築されている:私たちの任務は真実を探したり受け入れたりすることではなく、単に「自我による真実の否定」を見つめること。贖罪を否定する ”罪 / 特別性 / 憎悪“ といった自我の思考体系を見つめ「私はもうこれを欲しいとは思いません」と言うこと。
・これが「真理の否定を否定する」こと、すなわち二重の否定によって肯定が導かれること。それは高校の数学で学んだマイナス同士を掛けることでプラスの解が導かれることと似ている。

No.11574/p103  We are so stubbornly sure we are right. We perceive evil, disease, and suffering in…
・私たちは自分が正しいと頑なに信じている。世界に邪悪さ、病気、苦しみなどを見て、その全てについて答えを知っていると確信している。私たちがそう確信している限り — 頑固で傲慢な子供であり続ける限り — 私たちは決してそこにある助けを受け入れる事はない。
・唯一、恐れが私たちを圧倒した時にだけ「私には答えが分かりません。どうか助けてください!」と言うことになる。そのとき私たちの心は開かれ、愛ある贖罪の答えを聞くことになる。ついに私たちは問題のありかを見つけたのだ。

No.11592/p103-104  A child waking in terror from a nightmare is certain there is a monster lurking in the closet…
・悪夢でうなされた子供は、クローゼットに怪物がいると確信している。そして両親がその子をクローゼットに連れて行こうとすると怯えるだろう。その子が安心するためには、まず両親にクローゼットを開けさせ、中に何もいないことを子供自身が理解しなければならない。
・イエスは私たちの霊的な親なのだが、私たちの恐れが親と一緒にクローゼット(心)まで連れて行ってもらう事を阻んでいる。そうする代わりに、私たちはイエスに「悪夢(世界と肉体)のほうを直して欲しい」と頼んでしまう。だからこそ、イエスは私たちに「悪夢を恐れる必要はない。ただ裁きを持たずにそれを見つめなさい」と繰り返しているのだ。

*****
どちらの教師を選んでいるか

今回の12章にも印象的なところがいくつかありました。

上記のNo.11454では「自分の心がどちらの教師を選んでいるかは、自分がどのように世界を知覚しているかでわかる」…という、すごくシンプルで分かりやすい判定基準が示されてて、うーん。

それによると、もし自分が見ているのが「罰せられ報復されるべき罪が存在する世界」であれば自我を教師に選んでいることが明らかになります。ってこれ、私がニュースやらパパリンやらを見るたびに心の中で「チッ」と思ってることじゃん。

一方「怯えながら愛を求める呼び声」が世界に見えるのであれば、聖霊を教師に選んでいるということらしい。いやーすんません、そういう見方は博士に言われてやっと思い出すくらいで、日常的にはちょっと。。。orz

というわけで、今のところこれは「自分がほぼ常時、自我を教師に選んでいることが分かっちゃう判定基準」だと理解しました(゚∀゚)。でも、自我を選んでいること自体は罪でも何でもないので、それを責める必要は全然なくて「ああ、そうなんだな」って気づくためのモノサシってことなんでしょうね。

それよりも、自分はいまどっちの見方をしているだろう?と問い続ける頻度のほうが大事なのかな。。。と思った次第です。

というわけで、次回 Chapter 12 (その2) に続きます!

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