ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200810

マリア福音書のA&P的解釈

7/25。

またもやトリビアな考察になりますが、翻訳の仕方によって印象がだいぶ変わるもんだなー、と思ったことがあったのでまとめてみます。

この話は、だいぶ前に「マグダラのマリアによる福音書」という絶版本を図書館で借りて書いた感想(記事①記事②)の続きになりますが、追加でちょっと興味深いことに気づいたのが発端でした。それは、ゲイリー4冊目の「イエスとブッダが共に生きた生涯」のp195にA&Pによるマリア福音書の解説のところです:

イエスとブッダが共に生きた生涯 p195:

パーサ:あなたの本で使ってほしい引用があるの。マグダラのマリアの福音書からよ。「わたしは彼にいいました。『主よ、何をとおしてヴィジョンを見るのですか。わたしたちはそれを魂(ソウル)をとおして見るのですか。それとも霊(スピリット)をとおして見るのですか』。彼はわたしたちに答えてこういいました。『魂や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(マインド)をとおして見るのだ』」

上記でパーサが言及している箇所(下線部分)が「マグダラのマリアによる福音書」で言うと、「ベルリン写本 8502, 1 7. 幻視と知性」の箇所に相当することが分かったのでちょっと興味を持ちました。そこだけ抜粋してみます:

マグダラのマリアによる福音書 p32-42:

ベルリン写本 8502, 1
7. 幻視と知性
 1 彼女は言った、「わたしは主を幻の中に見たのです。2 そしてわたしはあの方に言いました、『主よ、わたしは今日あなたを幻の中に見ました』。
 3 あの方はわたしに答えました、『わたしを見て動揺しないとは、あなたは何とすばらしい!4 心のあるところには、宝があるのです』。
 5 わたしはあの方に言いました、『それでは主よ、幻を見る者は魂<によって>見るのでしょうか、<それとも>霊によって見るのでしょうか』。
 6 救済者が答えた、『人が幻を見るのは魂によってでもなく霊によってでもない。7 むしろ、その二つの間にある知性によって見るので、[そして、] それが [・・・]』」。

下線部分がゲイリー本とマリア福音書との一致箇所ですが、こうして並べてみると内容が違いすぎて、とても同じ原典を参照しているとは思えません。しかしこれは元々、コプト語→ギリシア語→ドイツ語→英語→日本語、という解読リレーを経た考古学的翻訳ですので、この程度は誤差の範囲内でしょう。

さて、私が引っかかったのはこれについての解説文です。ゲイリー本の邦訳では、この箇所についてパーサが以下のように意味を訂正をしているのですが、そのせいで却って話がややこしくなります(下線部分):

イエスとブッダが共に生きた生涯 p195-196:

 これはマグダラのマリアによって記録されたの。ちょうどわたしたちが一緒にいたころよ。ナグ・ハマディ文書から翻訳された「何をとおしてヴィジョンを見るのですか」は「ヴィジョンをとおして何を見るのですか」となるべきね。マリアはすでに答えを知っていたけど、そう問うことの利点をJに尋ねたの。魂(ソウル)はとても霊的(スピリチュアル)なものと考えられているけれど、それは個別性、つまり個の存在という概念だから分離の考えなの。みんな個の魂があると思っているわ。個の概念が肉体を伴うかどうかは関係なく、分離は分離よ。

 その引用にある「霊(スピリット)」という言葉の英語の翻訳には「The」がついているけど、「The」は要らないわね。霊はそこにあるすべてで一体性(ワンネス)ですもの。だから、マリアの福音書には分離の考えと一体性の考えの二つがあるのがすぐにわかるでしょ。Jが「魂(ソウル)や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(マインド)をとおして見るのだ」といったのは、選択することが心の機能だからよ。(以下略)

パーサこの訂正まぢか。。。訂正前の「何をとおしてヴィジョンを見るのですか」のほうがまだ分かりやすいんだが。。。しかも、訂正後を採用すると今度はJの回答と噛み合わないし。。。orz

そもそもめっちゃ平易なゲイリー本に、本当にこんな難解なことが書いてあるんかな?と思ってゲイリー本の原著「Jesus & Buddha本」の同じ箇所を参照してみました。すると、ちょっと違うニュアンスの事が書いてあって、あれっと思ったのです。参考までに、パーサの訂正が含まれている前半だけ原文を貼っておきます:

The Lifetimes When Jesus And Buddha Knew Each Other p103:

That was recorded by Mary Magdalene at the time we all hung out. This is what it meand: First, the quote as translated from Nag Hammadi writings asks, “What allows one to see a vision?” It should ask, “What allows one to see with vision?” That’s what Mary was asking J, for the benefit of those listening. She already knew the answer. The soul, although considered to be very spiritual by most, is actually a separation idea because it’s an idea of individuality, or personal existence. Everyone thinks they have an individual soul. It doesn’t matter if the idea of individuality involves a body or not. Separation is separation. (後半略)

なるほど、こう書いてあったのか。するとだいぶ意味が変わってきそうです。

まず邦訳で「何をとおしてヴィジョンを見るのですか」となっていた所は、「ヴィジョン(心眼)を見ることを可能にするものは何ですか」という感じになるかと。

そして問題の「ヴィジョンをとおして何を見るのですか」となっていたパーサの訂正文は、実際には「ヴィジョン(心眼)と共に見る、ということを可能にするものは何ですか」というニュアンスなので、これでやっと意味が通ったーーーー!(°▽°)

まあ、この程度のズレは翻訳本ではよくある事なので、さらっと読み飛ばせばいいだけの話なんですけどね。でも、マリア福音書の意味を探求するのがちょっとおもしろかったので、古文書の内容と突き合わせつつ、該当箇所の本来の意味を考えてみました。加藤先生の用語やワプニック博士の表現なんかも混ぜると、たぶんこんな感じになるんじゃないかという妄想です:

イエスとブッダ本 p195-196の大意 byトベ:

パーサ:あなたの本のどこかで使って欲しい引用があるの。マリア福音書からの一節よ:「わたしは主に言いました、『主よ、ヴィジョン(心眼)を見られるようにするものは何ですか?わたしたちはそれを(個別の)魂をとおして見るのですか?それとも(全一の)霊をとおして見るのですか?』主はわたしに答えて言いました。『魂や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(決断の主体)をとおして見るのだ』」

これはマグダラのマリアによって記録されたの。ちょうど私たちが一緒にいた頃ね。この一節の意味はこうよ:まず、ナグ・ハマディ文書の翻訳では「ヴィジョン(心眼)を見られるようにするものは何ですか?」と尋ねているけど、正しくは「”ヴィジョン(心眼)と共に見る” ことを可能にするものは何ですか?」となるべきね。マリアがJに尋ねていたのはそういう意味よ。彼女はすでに答え(=決断の主体)を知っていたけど、学ぶ意欲のある人たちの恩恵となるようにそう尋ねたの。

魂って、ほとんどの人達にはとても霊的なものだと思われているけど、実際には分離の想念なのよ。なぜなら魂というのは個別性の想念、または個人的な存在だから。みんな個別の魂があると思っているでしょ。でも個別性の想念というのは、肉体が関わっていようがいまいが関係ないのよ。分離は分離だから。

あと、この引用では「the spirit (霊)」と言う必要はなくて、ただの「spirit (霊)」でいいわね。霊というのは存在するすべてであり、一体性だから。なので、マリア福音書からの一節からも、あなた方が二つの考えを持っていることが直ちに分かるでしょう。

Jが「魂や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(決断の主体)をとおして見るのだ」と言ったのは、それが “選択する” という心の機能だからよ。あなたは心を使って分離の想念(コースで言うところの肉体、人間の精神、個別の魂)か、霊(完璧な一体性)かを選ぶの。どちらであっても、あなたに選ぶ習慣がついたほうが、あなたにとって実在すると思うものになるのよ。それがあなたの信じるものになるし、影響を与えるものにもなる。これでJが2000年前にも、現在の「奇跡講座」と同じことを教えていたことが分かるでしょう。(以下略)

*****

。。。というわけでした。ちゃんちゃん。

なんか重箱の隅をつつくような話になっちゃって恐縮ですが、やっぱりいちばん感動的だったのはパーサの言う通り、2000年前からほぼ手つかずで保存されてきた「マリア福音書」でもコースと同じこと(=決断の主体による「分離 or 全一性」の二択)を言っていたんだ〜!という事ですね。

あと、パーサが「マリア福音書」を現代語で正しく伝わるように訂正してくれたのも有り難いです。パーサは古文書の翻訳で欠けていた”with(共に)” という一言を挿入しただけなんだけど、それだけで内容がグッとコース的にクリアになります。

ちなみにマリア福音書に関しては、たまたま日本に全文翻訳が掲載された「マグダラのマリアによる福音書」があったお陰でこのような考察ができた、ということにも感謝したいと思います。アカデミックな見地からも、Jの言葉がだんだんコース寄りの意味合いで解読されはじめている事を肌で感じることができるのは嬉しいです。

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