FACIM読書会 5月 JTT Ch.9 (その3)
(つづき)
長くなりましたが、JTT本Ch.9の要約はこれで最後になります。
ちなみに、今回のオンライン読書会(Zoom)で初めて画面共有機能を使ってみたのですが、意外にもその方がシェア内容に集中できるというのは発見でした。店のテーブル上でPC/タブレットを見せ合うやり方だと、姿勢に疲れてつい脱線話に興じてしまいがちなのですが、オンラインで目の前に共有画面が表示されていると、不思議としっかり耳を傾ける状態になるもんですね。割とゆる〜くやってきた我々にしては、いまだかつてないほど真面目(?)な読書会になって全員が驚いてました。笑
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
★Chapter 9 — The Acceptance of the Atonement p23〜 (続き)
Forgiveness: The Holy Spirit’s Plan p23〜 (続き)
No.8944/p23 Nothing here makes sense. For example, the issue of dropping
・この世界のものは何も意味をなさない。例えば、爆弾を投下するかしないかという問題は、私達が「そのような決定によって影響される世界がある」と信じているのでない限り、道理にかなわない (そして実際にはそのような世界は存在しない)。
・このコースが難しい理由。それはコースの教えが、世界がしっかり握りしめてきた全てのルール、原理、法則を「例外なく」ひっくり返すから。
No.8970/p23-24 If I perceive you as sinful or evil, I must believe I am as sinful…
・もし私があなたを罪深いとか邪悪だと知覚するなら、私は自分こそがあなたと同じくらい罪深くて邪悪だと信じているに違いない。なぜなら「投影が知覚を作り出す」から。
・私達の日常で無罪性だけを見るというだけでも困難なのに、それを国家や国際レベルでも実践する難しさを想像してみるとよい。世界がこんなにも酷い状態なのは、問題の源が決して吟味されなかったからだ。
・だから、誰かが私達に対して異議を唱えるときや他者を傷つけるような事をするとき、自分がどう反応するか観察することは助けになる。私達の反応が「平安、親切さ、理解」以外のものであるなら、それに気づくことによって直ちにイエスに助けを求め、自分が相手と同じくらい狂っている事を認識することができる。(それは、私達が心の平安を投げ捨てた事の反映だから)
・そのことは罪ではないものの、「聖霊よりも自我を選択した」という誤りではある。なぜならその選択は聖霊の訂正を退けるため、私達を決して幸せにしないから。
No.8986/p24 This is one of the central themes in Jesus’ symphony of forgiveness…
(T-9.III.5:1-4)「兄弟が正気でない行動をしているとき、あなたは彼の中に正気を知覚することによってしか彼を癒すことはできない…」より:
・これはイエスの赦しの交響曲の中心的テーマのひとつ。私達が兄弟に対してすることは、私達自身にすることと同じ。私達が他者に知覚するものこそ、実は密かに自分の内面で知覚したものだから (正気か狂気か?恐れか愛か?罪か誤りか?) 。
No.8995/p24 Again, this does not mean we refrain from behaviorally responding to situations…
・繰り返すが、これは「状況に対して行動的に対処すべきでない」という意味ではない。ただ、私達が行動を起こす前にまず「どちらの教師に導いて貰うのかを考慮しなさい」ということ。
・聖霊を選ぶということは、分離した神の子の断片に内在する同一性を受けいれるということ (罪の狂気の中にも/赦しの正気の中にも。自我の裁きの中にも/キリストの心眼の中にも)。
No.9089/p27 We do not make amends on the level of behavior, unless that…
・私達は、それが親切で愛ある行為でない限り、行動レベルで何かを変更しようとすべきではない。他の多くのスピリチュアリティと異なり、コースは行動や形態については何も言及していない。常に問われるべきは「私達が何を行うか」ではなく、「誰と一緒にそれを行うか」なのだ。
True Healing p27 (No.9101)
No.9124/p28 This is why we must be in touch with what we truly want. Most
(T-9.II.2:4-7)「…彼自身が選び出した症状の除去を求めているだけである。したがって、この願いごとはまったく癒しを求めてはいない」より:
・私達が真に欲するものと繋がり続ける必要がある理由はこれ。多くの場合、特に学習の初期において、私達は自分の心を変えることなく外的な問題が癒されることを望みがち。
・こうした抵抗は心理療法においてもほぼ毎回経験される。患者は、無意識の(苦痛の)源を明るみに出す作業をすることなく、苦痛から解放されたいと望みがち。だがそれは症状を求める願いでもある。
No.9139/p28 True healers focus only on their own healing because that alone…
・真の治癒者(ヒーラー)は、自身の癒しにしかフォーカスしない。なぜなら、ただそれのみが問題であるから。もし私達が問題は外的なものであると考えるなら、私達こそが病んでいるのだ。他者も病んでいるかもしれないが、私達の関心は私達自身の誤った知覚に向けられるべき。
No.9150/p29 True forgiveness do not forgive; they let forgiveness be. Miracle…
・真の赦し手は、赦しを行うのではなく、ただ赦しがなされるままにする。奇跡を行う者たちが奇跡を起こすのではなく、奇跡が彼らの心から延長されるに任せる。救済者が救うのではなく、彼らを通じて救済が起こるに任せる。これらは「私達の唯一の機能(はたらき)は自我を取り除くことである」という事を違う言葉で表しているだけ。
・「私達は重要なスピリチュアル任務をやっている」と思う時はいつでも、特別性の罠に陥っている。それに従ってくる人々も同様だ。私達の働きとは、自我を内なる贖罪の光へと運ぶことによって、自我を訂正すること。私達によって「重要な」働きがなされたかどうかを気にかけるべきではない。私達の霊的な進歩を測る目安とは、「愛はこの世界では何もしない」という認識だから。
・この世界で唯一のスピリチュアルな行いは、スピリチュアルであろうとしない選択をすること。なぜなら、神のようになろうとすることこそ、私達がそもそもの問題に陥った第一歩なのだから。
・私達の「自我を訂正する」という機能(はたらき)は、それを聖霊と共に見ることによって達成される(つまり裁かないということ)。これが赦しと癒しの本質である。
*****
Chapter 9からは以上です。
世間の状況を見ていると、この読書会も当面の間はオンライン開催が続きそうだなと思っています。対面で会えないのは残念なことですが、Zoomにも画面共有というメリットがあると分かったので、前向きに活かしていきたいです。
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
コメント