ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200508(x3)

FACIM読書会 5月 JTT Ch.9 (その2)

(つづき)

読書会でやったJTT本Ch.9の要約続きです。これが一番長いかも。ちなみに実際の読書会では、こんな大盛りの要約を全部シェアしてたらマジ日が暮れるので、自分が特に気になった箇所だけを10ヶ所ほどピックアップして紹介してる感じです。それでも1時間近くかかっちゃうんですけどねー(^_^;)

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 9 — The Acceptance of the Atonement p12〜 (続き)

Forgiveness: The Ego’s Plan p12 (No.8565)

No.8595/p13 We turn now to the unhealed healer (and the section of the…
・私達は次に「癒されていない治癒者(ヒーラー)」による「破壊するための赦し」の例を見ていく。癒されていないヒーラーとはしばしば、他者の助けになろうとする善意の人である。
・癒されていないヒーラーは問題が存在しないところで対処しており、「治癒のための形態的な介入」を必要とする状況/肉体症状を作り出してしまう。彼らはまず誤りを実在させ、それから癒そうとするのだ。
・これはとりわけ有害な形の癒しである。なぜなら、それは慈善の心に富んだ行いに見えながら、問題の真の源(心が有罪であろうとする決断)を否定するから。そして(真の)癒しが決して起こらない事を確実にしてしまう。それは、ヒーラーと患者の「違い」を強調させることで、肉体のレベルで存続することを確かなものにするから。(真の癒しは「違い」ではなく「共有」された心で起こるもの)

No.8623/p14 Another way of understanding why the ego’s plan is far more…
・自我の計画のほうが神の計画よりも幅広く用いられている理由は、実際のところ、心の中にある問題を見たい人など誰もいないから。(そうすれば彼らは癒される事が可能になってしまう)。
・そうではなく、人々は個人としての自己をそのまま保ちつつ、症状だけを取り去って欲しいと考える。それによって、より幸せになったりストレスや苦しみから解放される、といった幻想を持つことはできる。しかし自我を選択した心の決断は決して気づかれることはない。

No.8657/p14-15 In summary, Christian theologians make the error of sin real…
・キリスト教の神学では罪を実在とさせ、神に同意させることで問題を解決しようとする(神が世界にイエスを与え犠牲的な贖罪をさせた)。また精神療法士は罪悪の問題を(症例として)実在させ、それから心理学の光を当てて解決しようとする。
・どちらのアプローチも心には何もしておらず、従って問題はそこに留まったまま膿んで投影されることになる。自我の救済計画がこれほど人気なのはそれが上手く行かないからであり、コースが決してもてはやされないのは、それが上手く行ってしまうからなのだ!
・自我としての私達は、上手く行かない方法しか欲しくない。そうすれば壊れるものの問題(車、機械、人間関係、国際関係、肉体etc)だけ解決しようとなるし、心の自我の選択をずっと温存したままでいられるから。

No.8689/p15 The point here should be especially noted. When you fight…
・あなたが何か/誰かに対して闘うとき、それがどんなに善意のものであろうと、誤りを実在させるという自我の罠にはまってしまう。誤りに対して反逆や抗戦によって訂正しようとするとき、あなたは誤りをそこに確立しており、注目が必要な問題として分類する。
・しかし私達の注目が必要なのは「存在しない問題」ではなく、それが「心の決断の主体の外側に存在しているという信念」のほうなのだ。

Forgiveness: The Holy Spirit’s Plan p18 (No.8759)

No.8831/p20 This does not mean we have to see glory when a person acts..
(T-9.VI.3:8-11)「…神が創造した者はみなあなたの一部であり、神の栄光をあなたと共有している」より:
・これは別に、愚かな振る舞いをする人に栄光を見るべきだと言ってる訳ではない。「兄弟を信頼する(L181)」というのは、彼らの自我を信頼する事ではないからだ。
・私達は自我に基づいた攻撃的な態度を(存在しないかのように)否定することはしない。だがむしろ、それを超えたところにある神の子に内在する一体性を見る。真実においてだけでなく、幻想においても。

No.8891/p21 The truth is that we revel in finding error and cannot wait for…
(T-9.III.2:1-3)「自我にとっては、誤りを指摘して「訂正する」ことは親切なことであり、正しく、良いことである…」より:
・真実を言えば、私達は誤りを見つけるのが嬉しくてたまらず、誰かが「問題を起こす境界線」を超えて来るのが待ちきれないでいる。
・最後の「誤りは自我に属するものであり、誤りの訂正は自我を放棄することにある(T-9.III.2:3)」という一文は重要。
・私達はみな間違った事や馬鹿げた事をして誤りを犯す。だが、他者の誤りを訂正する前に、まず私達自身の自我を手放さなければならない。さもなくば、出しゃばりな自我は ”他者の誤り” に飛びついて彼らを罰しようとする。

No.8905/p22 This does not mean that we turn a blind eye to what people…
(T-9.III.2:4-10)「兄弟を正そうとするとき、あなたは彼が間違っていると告げている…」より:
・これは「人々のしている事に目をつぶりなさい」という意味ではない。また「この世界のレベルで人々の誤りを訂正するのを控えなさい」という意味でもない。
・それでも依然として、私達の機能(はたらき)とは「彼らは正しい」と言うこと。”自我としての人々“ は間違っているかもしれないが、彼らはそれでも ”神の子として完璧” であるから。
・従って、私達は他者の間違いを罰しようとすべきではない。その代わり、誤りの源である分離の信念を訂正し、それによる ”防衛のなさ” を相手に示してあげること。

No.8916/p22 When people make mistakes they expect a punitive reaction…
・人々は間違いを犯すとみな懲罰的な反応を予期する。しかしながら、私達が彼らの誤りを正すときは — 時には厳しく、それでいて常に親切な意図を持って — 彼らに「あなたの罪は罰せられる必要はない(=罪はない)」というメッセージを伝えること。

No.8928/p22 Once again, the point is not that we stop correcting error on…
・ここの要点は、私達が形態の世界において誤りを訂正するのを止めろという事ではなく、「他者の誤りを訂正するときには、怒りからではなく優しさをもって行いなさい」ということ。
・小学校3年生の担任教師が、生徒の算数の間違いを訂正しなかったら怠慢となる。計算を誤っている生徒に「あなたは素晴らしいわね、計算も完璧よ」と伝えるなら、その子が世界できちんと生きていく助けにはならないだろう。
・彼の間違いを正してあげると同時に、彼は神の子として正しいのだと伝えるやり方はある。彼が間違いをしたとしても(しかも何遍も繰り返し間違えてきたとしても)、彼はやはり愛を受けるに値し、親切な敬意を払われるべき存在なのだ(彼の真の存在ゆえに)。

*****

前の記事でチラッと触れた「III. 誤りの訂正」の件は、上記でいうとNo.8891/p21の箇所から下ぜんぶになります。確かに「誤りを見つけるのが嬉しくてたまらない」という表現は、自分の体験に照らしてもしっくり来るというか。orz

。。。というわけで、Chapter9 (その3)に続きます!

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