ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20190119, 20190207

ゲイリー達のオンライン講座(10)

1/26。
あまりゲイリーのオンライン講座のために会社を休むわけにもいかないので、最近タブレット端末を使ってスキマ時間に視聴しはじめました。これだと見終わるまで何日もかかっちゃうけど、しばらくこの方法で様子見してみます。

講座の本編
1月の講座の後半で、テーマは引き続きHealing and Faithです。また独断と偏見でお気に入り箇所をメモします。

[シンディ]
(0:10) 月曜はキング牧師の記念日でしたが、そのキング牧師が信念についてこう言ってます。「信念とは、たとえ階段全体が見えなくとも、その階段の最初の1段に踏み出すことである。(Faith is taking the first step on the staircase even when we don’t see the whole staircase.)」

素敵ですよね。もしコースなら、同じことをこう言うでしょう。「信念とは、たとえ梯子の全体が見えなくとも、その梯子の1段目に踏み出すことである。(Faith is the first step in the ladder without seeing the whole ladder)」

私たちが心(マインド)の全体像を知る必要はないんです。私たちは、一度に一歩ずつ進むことしか求められていません。ただ、この大きな訂正のプロセスという文脈において、自分をイメージするだけでいいのです。目の前に何が起ころうとも、日々、赦しの階段を一歩ずつ進むだけでいいのです。

[ゲイリー]
(0:24) もちろん赦しこそがクモの巣のような混乱をクリアにする方法だ。赦しは聖霊の声を聞こえなくする障害を取り除き、もっとよく聞こえるようになる。そして聖霊は常に、赦すようにと僕らを導く。「何があっても赦しなさい」と。それにはそれなりの姿勢が必要だ。キング牧師はこうも言った。「赦しというのは一時的な行為ではない。それは一貫性のある姿勢である」

この姿勢こそがコースで言う「奇跡の準備ができた状態(miracle-readiness)」だ。僕らはみんないつか「いつでも赦す準備ができている状態」に到達する。何かが起こる前に、すでに赦そうと思っている状態だ。この状態に達していれば、赦すことは10倍も易しくなる。(中略)

「どうしたら赦せるんでしょう?」という話はよく聞くが、それは赦すという決意と共に始まるものだ。何が来ても赦すという姿勢でいることは、自分が「赦すゾーン」にいるということだ。それは、必ず赦さなければならないという意味ではなくて、「自分には赦す準備がある」という事でもある。

(0:47) Jは十字架刑のメッセージ(T-6.I.15)の中で、「私が裏切りを信じていたのでない限り、私が『汝は接吻をもって人の子を裏切るのか』と言ったはずがない」と言っている。Jは裏切りなど信じていなかった。なぜなら、肉体というものを信じていなかったから。

これに関連して、新約聖書でもうひとつ際立っているのが、彼が磔刑の時に言ったとされる「父よ、父よ、なぜ私を見捨てたのですか」という言葉だが、おいおい、それはあり得ないってもんさ(笑)。それは本物のJとは真逆の発想だ。

旧約聖書のソロモンの雅歌の後には次のようなくだりがある:「父よ、父よ、なぜ私を見捨てたのですか」— つまり、後世の者が旧約聖書の言葉をJの口に被せたということだ。そこで彼らが何を試みていたかというと、その言葉をユダヤ教とキリスト教の間に架け橋にしようとしたんだ。もちろん、そんな試みはうまくいくわけないけどね。


Q&A

今回は全部で12問のQ&Aがありました。一番最後の回答で、これから執筆予定の5冊目の本について言及があったので、それも取り上げてみます。

Q1. 世界が幻想なら、なぜ私たちは、より良い仕事、家などのために頑張らなければならないのですか?

ゲイリー:まったくだ(笑)。僕らがここにいるように見える間は何かをしなきゃいけない(もちろん、何もしないという選択も含めて、何かしているということだ)。だが、それをシリアスに捉える必要はない。それは単なる嗜好だと捉えればいい。例えば、僕は暖かい地域が好きだ。だから今は南カリフォルニアに住んでいる。でもそれは僕の好みに過ぎない。仕事とか家とかも同じだ。そういったものを偶像にしてリアルにする必要はないんだ。映画を見て楽しむようなものだよ。深刻になって執着することはない。

Q3. 聖書には、船上のペテロがJに呼ばれ水の上を歩くという有名なエピソードがあります。ペテロが恐れてJから目を離すと水に沈むという話は、信仰心を保つことについてのメタファーですか?それとも実話ですか?あと、ペテロではなくトマスに起こったことですか?

ゲイリー:それは本当にあった話だ。人物もペテロで合っている。ただ、ペテロは使徒の中でもどちらかというと宗派を起こしたい側のグループ(ヤコブ、後にパウロetc)にいて、僕ら(J、マリア、トマス、タダイ、アンドレ、ピリポ、ステパノetc)は宗派など別にどうでもいいと思っているグループだった。

ペテロは、Jに焦点を保っていた間は確かに水の上を歩いたよ。(湖の上で)Jはペテロに信念を呼び起こした。それによってペテロは一時的に水の上を歩くことができた。しかしその信を保つのは本人しかできない。

新約聖書に書かれているJのさまざまな奇跡は、実際に起こったことだ。Jも水の上を歩いたし、嵐を鎮めたし、ペテロに魚を与えたり、病人を癒やしたり、死者を蘇らせたりした。ディテールは実際とは違っているものの、どれも実話に基づいている。ただ、聖書ではJは特別な人として描かれている。そこがコースとの大きな違いだ。コースに描写されているJのほうが、2000年前の実際のJを的確に表していると思う。

*****
。。。というわけで、最後のQ12でゲイリーは5冊目の本の執筆予定についてチラッと話してくれました。4冊目のJesus & Buddha本では主にイエスとブッダが共に過ごした人生を扱っていましたが、これから執筆予定の5冊目では、他の使徒たちについても書いていく予定だそうです。また、Jはどのようにして悟りの道に至ったかについても焦点をあてていく予定とのこと。ちょっと楽しみ。

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