ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20180829

誰かに優しくできないとき

ちょっと前のKindnessに関する勉強会でテディさんに紹介してもらった事例でもうひとつ、かなり印象に残ってたやつがありました。それは、「いいひと」を目指して失敗しちゃった時の罪悪感とどう向き合うかという、ちょっと繊細なテーマです。

たとえばコースって「愛は不満を抱かない(L68)」とか「怒りは決して正当化されない(T-30.VI.1)」みたいな話がいっぱい出てくるから、まるで聖人君子を目指さなければならないかのような錯覚に陥ってたというか。。。でも結局それができなくて自己嫌悪に陥ったりしてたんですよね。ああ私ってダメな子、みたいな。

これって攻撃の対象が相手から自分にシフトしただけで、なんか本末転倒じゃないか?とモヤモヤしてたんですけど、この事例でワプニック博士が赦すべきポイントを明確にしてくれてて参考になります。ちょっと長めですが、こんな感じでした:


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The Healing Power of Kindness vol.1 (e-pub版 No.303/Kindle変換) 

To cite another example shared by a student in…
私の講義で学習者がシェアしてくれたもうひとつの事例を紹介します。私たちは「他者へ不親切だったことを理由に、自分自身に対してもっと不親切になる」事もあるのです!
コース学習者のパットは、近所に住んでいるアリスに対して問題を抱えていました。パットが公園で寛いでいるとき、アリスがやってきて隣に座り、勝手におしゃべりを始めるのです。パットにとって彼女のおしゃべりはひどく退屈だったし、リラックスタイムを邪魔されるように感じていました。そして「アリスと話したくない自分は『良きコース学習者』ではないかもしれない」と悩みました。
パットは時々アリスのおしゃべりに付き合いましたが、結局腹立たしい気分になるのでした。別のときは、当然のことと思ってアリスのもとから立ち去りしましたが、後になってからそのことに罪悪感を感じたりもしました。「アリスだって同じ神の子なのに…」どちらにしてもパットは自分を責めることになったのです。

そんなパットの質問はこのようなものでした:「アリスの話に興味があるフリをしておしゃべりに付き合ってあげたほうが、より愛ある行為なのでしょうか?」

彼女への私の回答は、すでに述べた2つの基本的なポイントが中心となっています:ひとつめは、常に「普通」でいることの大切さです。ふたつめは、決して出来事そのもの(形態)が問題なのではないということ。問題は常に、私たちがイエスよりも自我のほうを教師として選ぶこと(内容)にあるからです。

私たちには皆、「好き」や「嫌い」といった好みがあります:食べ物、色、性格、音楽、髪型、映画、気候…などなど。しかしそれらは、私たちが肉体としてこの世界に存在する上でのありのままの事実に過ぎず、私たちの霊的な進歩度合いとは全く関係がありません。従って、私たちは好き嫌いを問題扱いしないで、それぞれの好みがあるということを認める必要があります。パットは、アリスを嫌ったり裁いたりすることなしに、ただ単に「アリスと共に過ごすのは気が進まない」と認識することもできたはずです。しかしパットは、この状況を何やら壮大な霊性のテストにしてしまい、明らかに自分を不合格にしました。パットは「私は誰とでも仲良くして、どんな話題でも歓迎しなければならない」と考えることによって、自分自身を十字架に架けてしまったのです。

もっと自分に親切で優しいアプローチは、ただシンプルに「これが私が自分だと思う自分です。私は料理Aが好き。映画Aが好き。私はAさんと一緒にいたい」などと認めてあげることです。この精神をもってしたならば、パットは相手に対して純粋に「失礼します」と言って、ずっと平安な心を保ったまま、どこか別の場所に座ったり、自分のアパートに戻ったりできたでしょう。ところがパットは平安ではありませんでした。つまり、彼女はイエスの代わりに自我を教師として選んでしまったということです。彼女は、アリスと一緒に過ごさないという決断を罪とみなし、そのためひどく罪悪感を感じる羽目になったのです。(罪悪感は常に、自我を選択したしるしです) それがパットの失敗でした。問題は彼女がアリスと一緒に居たくないことではなく、彼女が自我を教師として選んでしまったことでした。

私たちは、肉体をもった時点ですでに「自分か他者か」という自我の思考システムを選択してしまっています。だからパットは「もし私が神と一緒に居たくないなら、ましてあの女と一緒に居たいなんて思えるかしら?」と気づくこともできました。言い換えると、パットが自分自身を神から分離した存在とみなすことと、アリスから分離しているとみなすことの間には、まったく違いなどないということです。私たちが他者を裁くということは、私たちが神を裁くことと同じです — それは「狂った小さな考え」の暗い断片に過ぎません。このことは一つ目の奇跡の原理「奇跡に難しさの序列はない(T-1.I.1:1)」を反映していて、それは自我の混沌の法則その1「幻想には順位がある (T-23.II.2:3)」を取り消し訂正するものです。

もしパットが自我の代わりにイエスと繋がっていたなら、自分の愛からアリスを除外したことについて、自分自身を裁くことも正当化することもしなかったはずです。そして最終的に、「アリスを分離した存在と見なすことが、自分の内にある神の愛と平安を体験できなくする障害なのだ」と認識したことでしょう。ですからパットが彼女自身への親切さを表現するためには、すべての人々に対して完璧な愛を示せない自分自身を赦すこと — 自分の限界を謙虚に受け入れ、その事で自分を責めないことです。イエスは、あなたがAさん、Bさん、あるいはCさんと過ごすかどうかといったような形態(form)については気にしません。しかしイエスは、あなたが心の中で何を想っているか、あなたの心が誰を除外するかしないか(イエス含め)、といった内容(content)について気にかけているのです

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。。。最後のほうの、「完璧な愛を示せない自分自身を赦すこと」「自分の限界を謙虚に受け入れ、自分を責めないこと」というのは、すっごい優しい言葉だなあと思いました。うっかりやっちまった時なんかに、この博士の教えをいつでも思い出せればいいんですけどね。トベはだいぶ練習が必要ぽいですが。

今年のはじめごろ、毎朝始業前にオフィスの清掃にきてくれるおばさんがいて、最初のころは趣味のカラオケの話なんかをしてくれて楽しかったのですが、そのうち脚が痛くて何をやっても治らないという話ばかりになってきて、だんだん聞いてるのが辛くなってきた事があります(こっちは癌だったけど伏せてた)。

たぶん彼女は「脚のこと、お気の毒ですね」と相槌を打ってくれる相手を求めていただけだと思うのですが、私も自分の病気で手一杯というときに遅刻ギリギリまで彼女の不調を思いやる心の余裕はなかったので、その後、朝の移動をおばさんに会わない経路に変えてしまいました。

それでもたまにチラッとおばさんの姿を遠目で見かけたりするときに、「会うのを避けちゃって申し訳ないなあ、脚のほう治ったかなあ」などと後ろめたい気持ちになったりするわけです。こんなとき博士のアドバイスを応用するなら、「”私は薄情だ”という罪悪感を裁かずに見つめて、自分を責めないようにする」という事になるかと思いますが、とっさにそう思えるかというと、なかなかね。。。orz

でも、こんな微妙なケースでどうしたらいいかという事までは、正直、ACIMのテキスト読んでも分かりません。こんなとき、博士のケースバイケースの教えが本当に有り難いなと思うのです。

出典: The Healing Power of Kindness vol.1 (FACIM)

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