2000年前の聴衆を想ってみる
毎日ワークブックをやって、概念を繰り返し読んでいると、世間の常識と違うところに来てしまったようなアウェイ感がたまにあります。もちろん表向きは普通に相槌を打ちながら、周囲に合わせて暮らしてますけど。。。
それまで災いを避けて快適さや幸福感(それが束の間のものだとしても)を追求するのが普通の人生だと思ってたんですけどね。しかも趣味も娯楽も溢れている時代だから、他の事に夢中になる選択肢は無数にあるし、実際途中まではそうしてたのに。なのに、なんの縁があってACIMに出会ったんだろう?
そんな事を考えながら過ごしていたある時、ふっと思い出したことがありました。それはゲイリー本4冊目のJesus & Buddha本の、イエスと仏陀がともに生きた最後の人生(つまり彼がイエスと呼ばれた2000年前)のところにちょろっと書いてあった話です。
当時のイエスは広範囲にわたる地域を旅しながら、大勢の聴衆を相手に教えていたそうです。で、ゲイリーが「2000年前、イエスの話を聞きに来た人々は何人くらいいたんだろう?」というトリビアな質問をするのですが、それに対するアーテンの答えがこんな感じだったのです↓。※テキトー訳で失礼します。
The Lifetimes When Jesus and Buddha Knew Each Other (Kindle版) p89 より
GARY: How many people were there? I’ve always wondered…
ゲイリー:何人くらいの人々が来てたのかな?当時、どのくらい大勢の聴衆だったんだろうって、いつも不思議に思ってたんだ。
アーテン:4千人くらいだね。イエスが話した中で最大の聴衆は5千人だったよ。でもそれは、後にエルサレムの外での話だけどね。その時は、彼が救世主(メシア)だっていう噂が流れた結果そうなったんだけど。もちろん彼自身はそんな事ひとことも言わなかったよ。君も知ってると思うけど、人々は極端に行きたがるのさ。みんな肉体的・精神的に救われたかったのだけど、そこがポイントじゃなかったんだ。
当時イエスについてきて彼の言葉をなんとか理解しようとしていた人々の多くが、現在ACIMを勉強している人々なんだよ。彼らがコースの言葉に惹かれるのは不思議ではないよね。
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この最後のところが、わー(´⊙ω⊙`)と思った部分です。それまで過去生でイエスに会った事があるかどうかなんて考えたこともありませんでしたが、もしかしたら私も2000年前にイエスの話を聞いていた聴衆の一人だった可能性があるのかなー。。。なんて、突如考えちゃって。
そこでいろいろ妄想するわけです。当時、何千人という聴衆の一人だった私はイエスの話なんか全然理解できなくて、「ねえ、あの人救世主だって噂だけど本当なの?何言ってるか全然わかんないよね!」なんて中東語でブツブツ言ってたかも知れません。
だけどこの妄想の中でいちばんわくわくするのは、イエスがその聴衆の一人一人の中に完璧な聖性を見てくれていた事だったんじゃないかと思います。当然ながら、人々は自分たちにキリストの眼差しが届いていたなんてこと気づかなかったと思うけど。でも仮にその時、その場にいた人々の心の底にイエスの愛がかすかに届いて、ひっそりと目覚めの種が蒔かれていたとしたら。。。?
それから今までの間に何度人生をやりなおしたのか分かりませんが、かつてイエスの話を聴いた誰もが、心の中にその種をずっと保持していたら面白いなと思ったわけです。
愛の延長は時空を超えているはずだから、一見2000年の隔たりがあるように見えることなど全然問題ではなくて、とにかくそれは今になって「なぜか分からないけどACIMに惹かれる」という形で芽を出したのかも?
。。。と、ここまで全部が妄想です。いやー我ながら壮大なスケールの寝言だなあ。(゚∀゚)
そもそもゲイリー本に書いてあることを鵜呑みにしていいのかという根本的な問題は残りますけど、学習者になった人たちの共通点がとりわけ強くACIMに惹かれることだとすると、2000年前に聴衆だったかも説にも一定の説得力はあるかなと思いました。
そう考えると、ACIM学習で多少世間と噛み合わない考え方になったとしても、これはこれで本望だったということなのかな。もしみんな幾多もの人生で、イエスの教えに再び触れることを切望していたのなら、誰でもACIMが読める今回の人生ほどのチャンスはないって事になりますもんね。。。
ならまあ、周囲との考え方のズレみたいな多少の不便は許容範囲だと思うことにしよう。
最後まで妄想で自己完結しちゃった。(^^;;
出典: The Lifetimes When Jesus And Buddha Knew Each Other (Gary Renard)
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