ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20171006, 20210205

知的理解を体験に繋げる難しさ

1/21。

From Dissociation to Acceptance

先日、テディさんが教えてくれたFACIM記事 Excerpt from “Ending Our Escape from Love: From Dissociation to Acceptance” が、なかなか微妙なところを突っ込んでるなぁと。簡単に言うと、コースの理論を知的に学んでも人生に活かされないケースについての説明です。個人的に当てはまる症状がたくさんあってアハハハハハ(°▽°)となってました。

考えるだけでなく、感じること

It is important when we work with A Course in Miracles over a period of many years to realize that there is a part of us that is split off, or to use the psychological term, dissociated…

この記事での博士は、どちらかというと長年コースを学んでいるベテラン学習者に話りかけてる雰囲気ですが、じゃあ私みたいな3年生は関係ないか?というと、そうでもない様子。

私たちは時間をかけてコース深く学ぶにつれ、その思考体系にどんどん納得がいくようになり、何年も学習と実践の日々が続いていくことになる。。。予定ですが、奇妙なことに「コースで学んだことが直接的に体験に結びつかない」という状態が起こります。例えば、平気な顔で怒ったり批判したり、特別性にかまけたり、まるでコースで学んだことが人生に何の影響も与えなかったかのように振る舞うケースがそれに該当するそうです。アイタタタ。。。

それはまるで、自分のなかの一部分が真理を信じていながら、残りの部分は肉体としての日常生活や問題解決に明け暮れているような感じで、両者の間の繋がりが完全に断ち切られている状態だといいます。そうした深刻な断絶(壁)があるって事そのものを見つめることが大切なんだよ、と何回も言われていながら、右から左に抜けてしまう。。。なにやら身に覚えがありすぎてどうしよう。

ここで博士が言う断絶(壁)というのは「抵抗」という言葉に置き換えると分かりやすい気がします。それを「見つめる」というのは、抵抗について “知的に考察” するだけではダメで(=結局、それが防衛になってしまうので)、私たちは、自らの学びの浸透を阻んでいるものを “感じようと(try to feel)” していかなければならないのだそうです。

そういう博士はめちゃんこ理論を解説をしておられる方ですけど、同時に「コースを知的に理解したとしても、何も変わりはしない」とも仰ってます。本来、コースの原理というのは、私たちの人生のあらゆる側面に影響を及ぼし、人生を変容させるようなものであるべきだ、と。でも同時に、その原理から影響を受けまいとする心の動き(抵抗)もあるわけで、それを “感じ取る” ことが最も大事なことなのだそうです。

いつもロジカルにお話される博士が感覚的なアドバイスするのは珍しい感じがしますが、”感じる” というのは文字通り感覚的な側面について仰ってるように思いました。これについては後述します。

真理が何の影響も及ぼさない例

「私たちは、ありとあらゆる事について、いともたやすく不満をもちます。一緒に暮らす人のこと、職場のこと、肉体のこと、加齢のこと、大統領のこと、天候のこと…。そのうえ文句を言ったり、粗探しをしたり、排斥したりすることは、私たちにとってあまりにも当たり前すぎて、考え直すこともしません。
そのように生きていながら、くるっと向きを変えてコースの講義にやってきて、ACIMについて学び、その理論を理解し、コースが真理であると受け入れたりするわけです。。。」という、博士の歯に衣着せぬご指摘がありまして。

これってJTT本やってる前後とかに感じるギャップそのものですね。
読んだりメモったりしてる最中は「うお〜!素晴らし〜!ぜひ応用せねば!」って思うんだけど、本を閉じた瞬間に全てを忘れ、3分後にはパパリンの振る舞いが気に食わないと言っては条件反射でウガーと噛み付いたりしてるし。。。
これぞ「コースで学んだことから何の影響も受ける気はないぜ!」というワタクシ様の揺るぎない信念の表れに違いない。orz

This is similar to the revolution in physics in the 20th century that started with Einstein. It shattered all of the Newtonian laws and helped us realize that nothing is what we think it is…

このことは、アインシュタインに始まる20世紀の物理学の革命によく似ているといいます。アインシュタインの相対性理論は、それまでのニュートン力学のすべてを塗り替えました。それは、私たちが見ている世界は私たちが思っている通りのものではなく、「物理的な世界というのは基本的に幻想である」という理解を助けてくれるものでした。

しかし、こうした驚きの発見をもってしても、私たちの日常的なものの見方には何の影響ももたらさなかった、というご指摘はホントその通りかも。もちろん、そうした発見のお陰で科学のほうは進歩しましたが、日常レベルでの私たちの認識(=見たままの世界が確固として存在する)は相変わらずであるように思います。コース学習もこれと似たような展開になりがちなのでしょう。

解離という心理的防衛

そもそも、検証可能な物理学でさえ私たちの世界観を変えることはできないのだから、まして検証不能なもの(聖霊とか…)が関わるコースを受け入れるのは、もっと難しいことなんだろうな、と思います。

What all this tells us is that there is a tremendous fear of changing what we know—we do not want our worldview to be upset. Nothing changes or upsets our worldview more than A Course in Miracles…

様々な事例から明らかなのは、私たちは「自分の世界観が変更されることについて途方も無い恐れがある」ということだそうです。慣れ親しんだものの見方が脅かされるのはイヤですもんね。

ところが、そんなワタクシ様の保守的な世界観にとっては最悪なことに、いま学んでいるACIMというやつが、もっとも過激に私たちのものの見方を変えたり脅かしたりする代物だったりするわけです。何しろその教えは、私たちを時空を超えたところへ連れていってしまうので、ヤバさ的にいうと量子物理学どころの騒ぎではありません。

コースはこの世界が幻想であると言っているだけではなく、この世界を作り出している想念すら幻想だと言っています。この物質的な肉体が幻想だというだけでなく、この肉体を作り出した想念さえも幻想だと。このことは、個人としての私たちの立場を完全に失わせてしまいます。
なぜならコースは、「私」という個人はまったく実体がないばかりか、「無であるもの」「存在しない考え」だと言ってるのと同じだからです。この全否定が「私」にとっては非常に恐ろしく圧倒的に受け入れがたい、というのはなんか分かる気がする。。。

しかし私たちは、この恐ろしい結論に向き合うくらいだったら、むしろそれを切り離してしまうのだそうです。解離(dissociation)というのは良くできた心理的防衛で、排他的な二つの想念をどちらも手放したくないときに、それらを切り離して忘れてしまうというやつですね。(→解離については「思考の逆転」p25に解説あり)

で、これと同じ心理的な防衛が「コースを学ぶ自分」と「コースなど関係ないかに振る舞う自分」の間にはあるんですよ。。。というお話でした。ふう。

雑感など — 愛に対する恐れ

誤解のないように付け加えると、博士は「学習者は文句言ったり、粗探ししたり、怒ったりしちゃダメ!」という道徳的な説教をしている訳ではないです。(実は3年前はそうだと思っていた…)

コース的には怒っても何しても罪ではないし、聖霊が咎める事はあり得ないので、自分を責めたりする必要は全然ないけど。。。そのときに自分がどちらの教師(自我 or 聖霊)を選んでいたか?という事についての自覚はあったほうが助けになる気がしています。

たとえば明らかに愛のない考えを、何の引っかかりもなく心に抱いてたとき。①そのことに気づきさえすれば→②自分がどれほど愛によって消え失せる事を恐れているのかがジワジワ分かってくる→③明るみに出た恐れが聖霊によって訂正される(そしてもっと聖霊に助けを求めたくなる)、というサイクルが出現するはずです(理論上は)。でも、そもそも最初の一歩で知らんぷりを決め込んでいたら何も変わらないですね、たしかに。

冒頭で「学びの浸透を阻んでいる “何か” を感じるように」と、珍しく感覚的な話があったけど、そこで感じるように言われてた事というのは、おそらく上記の②にまつわる恐れではあるように思います。それもただの恐れではなく、愛に対する根源的な恐れなので、すごく自覚しにくいやつです。これを、(理論的にではなく)感覚的に感じていくように、というのはある意味、なかなか凄みのあるアドバイスかも。

と、ごちゃごちゃ書いてみたけど、振り返ってみると今回自分が書いたことをひとつも日常的にやってないことに気づきました。
博士は何でもお見通しだなー。(やれよ)
ァ,、’( ꒪Д꒪),、'‘`,、

出典:Excerpt from “Ending Our Escape from Love: From Dissociation to Acceptance” (FACIM)

コメント

  1. 奇跡講座のテキストには、このコースは時間を省くものなのであって、肉体からの離脱を目的とした一生かけての観想や長期間にわたる瞑想も、必要ではない」(T-18.VII.4:9)というのがあるですが、私個人としては、知的理解と実践の乖離は、瞑想のようなものが埋めてくれるというような感じをもってます。というか、私自身は確実にそうだなと思っています。

    ヨハネの福音が はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった、で始まるように、イエスが教えたアプローチは ことば だな、と思います。聖書のどっかに、ことばを聞いてさとれ、という記述があったと思います。でありながら、イエスは群衆の前でなんかをしゃべってから、疲れてきたら 静かなとこにいって祈ったと書いてもあります。

    心が実体であって 肉体はまぼろしだとはいえど、体と呼吸をととのえて 今日という日を十二分に生きようすることは、私はすきです。これはしかしACIM的ではないのだろうなあと思ったりはします。

    • Togoさん、ありがとうございます。
      奇しくもちょうどJTT本18章を読んだところで、引用いただいたT-18.VIIは物議をかもしそうだな…と思っておりました(近々まとめる予定)。少なくとも博士は、修道院生活や、ACIM成立の道のりを通じて、瞑想的な境地を良くご存知だったと思われます。もっと言うと、実践の手引であるワークブックも、朝晩の手順は非常に瞑想的だったりしますよね。だから、なんだかんだでACIMは心に沈潜する行為を大事にしているように感じるのです。

      実際、T-18.VIIの全体を読むと、瞑想の成果についてはむしろ肯定的ですし、「必要ではない」っていう箇所も原文では”nor〜necessary”となってて、瞑想ダメ、というニュアンスではないですから、少なくとも瞑想の価値は否定していないと思います。
      ただ入り口のところで、それを肉体を伴うアプローチとして捉えるか、心のアプローチとして捉えるかの違いはあるかも知れません(ACIMは後者かと)。でもTogoさんのように深い瞑想に入れる人にとっては、その違いすら消え去るのでしょうね。

  2. ちょうど今、「天国から離れて」の中にある、
    瞑想に関するところを読んでおりました(p200~p202)
    ヘレンが、ビルにあてた手紙の中で、次のように語っています。
    「ところで、わたしは、いつ、どこで瞑想できるか、といったことについて、
    あなたは間違っていたと思うのです。いつでも、どこでもできる、というのがその答えなのです」
    瞑想についてイエスが言いたかったことは、
    お寺や家、自然の中など、特別な場所や時間を選んで、長時間、または長い期間の瞑想は、
    やってはいけないというわけではないけど、その必要はないということなのかなあと。
    やろうと思えばいつでもどこでもできるし、そうなることが必要というのが、コースでも仏教でも言われていることのような気がします。

    • 山本さん、ナイス引用ありがとうございます!「天国から離れて」p201ですね。確認したらご丁寧に付箋まで貼ってあって、どうやら過去の私も感銘を受けていたようです。笑 (続きます)

      • 付箋や線を引いたところほど、覚えていないって、あるあるですよねw

  3. あと、瞑想に関する定義というものが、人によって様々であることが、
    瞑想について語るときに、しばしば、混乱に陥ってしまう原因のような気がします。
    一般的には、瞑想というと、
    「特定の場所で、特定のそれなりの時間、じっと静かに座って、心を落ち着ける」
    という意味だと思いますが、
    本来、理想とすべきは、行住坐臥、生活全般に渡って、瞑想的な生活、
    つまり、気づきを保ちながら生活をするということなのではないかと。
    この点について、ワプニック博士は、「形態と内容の区別」という観点から、説明している感じです。
    ワプニック博士曰く、わたしたちは儀式的な形態に依存してしまう傾向があり、
    そのために、その内容であり、核心そのものである愛を曖昧にしてしまうとのことであります。たぶん。

    • たしかに、上記のヘレンの手紙を見ると、瞑想の定義の幅広さを感じますね。山本さんの仰るような生活そのものが瞑想、という在り方はコース的な理想とも通じる気がします。といっても、私などは概念的に区別をつけているだけなので体験が伴ってないのですが😅
      あと、博士があまり瞑想の話をしなかった理由はご指摘の通りであろうと思います。実際、博士は瞑想したり祭壇作ったりイスラエル聖地巡礼までしてますが、講義ではそういう話は一切しない印象ですよね。これも、我々が「内容」から目を逸らさないようにという配慮なのでしょうね。

  4. 生活そのものが瞑想って、言うは易し、行うは超絶難しの代表例ではないかと思われます。
    ある意味、究極の在り方と言っても過言ではないのかもしれませんよね。
    なので、お寺などの特定の場所で、特定の時間、いろいろな人と一緒に座禅(瞑想)するほうが、良いかもしれません。
    (やったこと、1,2回しかありませんが)
    ワプニック博士って、学習者に対する要求度が、半端なく高いような気がしますw

    • まさに究極の在り方ですよねー。私なんぞには難易度高すぎかも…。だからこそ、まず心を曇らせている部分(動揺など)に目を向けましょう、と励ましてくれているのかもですね。それが「裁かずに自我を見つめる」という表現に集約されているのかも知れません。もちろん心理的抵抗という難しさはあるので、万人向けの方法ではないかもしれませんが。
      (個人的には「裁かずに見つめる」という言葉は、自分を責める必要がないことを思い出させてくれるので優しさを感じています☺️)

  5. >「裁かずに見つめる」という言葉は、自分を責める必要がないことを思い出させてくれるので優しさを感じています

    なるほどです~。
    私の場合、
    「よ~し、裁かずにみつめるぞ~」5分後⇒「裁かずにみつめることできねえじゃねえかお前はは。そんな簡単なこともできねえのか」と、結局、裁いてばかりなので、Tobbeさんの上記の連想はとても役に立ちそうです。

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