ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20201218(x2)

読書会 JTT-16章(2) 真の共感/旅の慰め

(続き)

この記事が公開される頃にはクリスマス、そして年末ですね〜。パンデミック以外のことはあまり印象に残らない1年間だったけど、JTT本だけは続けてて良かった!と思います(^^)

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 16 — The Forgiveness of Illusions (2)

真の共感とはなにか

No.16509/p255  We begin with the chapter’s opening section, “True Empathy”. This was originally not part of the Course, but a…

まず、16章のちょっと意外な裏話。なんと「真の共感」は、元々コースの一部ではなかったそうです。それは、ちょうどヘレンが15章の筆記を終える頃に、たまたま彼女に与えられた特定のメッセージだったのだとか。そして、その内容がちょうど16章のテーマにうまくフィットしたため、そのまま時系列的に並べられてテキストにおさめられたのだそうです。へー。(゚- ゚ ) 

その「真の共感」は、こんなふうに始まります:

「共感するとは、苦しみを共にするという意味ではない。そのように理解することは、あなたが拒否しなければならないことである。それは共感についての自我による解釈であり、常に特別な関係を結ぶために使われ、そこでは苦しみが共有される。(T-16.I.1:1-2)」

これについての博士の詳しい解説はExcerpt SeriesでもTrue Empathyとして紹介されていて、個人的にかなり目からウロコで何度もお世話になったやつですが( )、このJTT本でもさらっと概要が紹介されています。

No.16514/p255  As the world practices it, pity or empathy are but other forms of the special love relationship…

まず、世間一般における「哀れみや共感」といった概念のちゃぶ台返しドーン。この世界では、相手の苦しみを思いやることは “愛ある態度” として評価されているけど、コースでは全く異なる見方をしているというのです。
博士に言わせると「哀れみも共感も、”特別な愛の関係” のバリエーションに過ぎない。それは自我バージョンの愛の表明である」とバッサリ。ぇえ〜、まぢすか。。。(´д`;)

いわく、自我にとっては、私たちが「他者の苦痛を気の毒に思う」ことが、彼らに対する愛の表明なんだとか。ええまあ。。。災害とか、事故とか、病気とかで不幸な目に遭ってるひとがいたら、その人達の苦しみを思いやって助けてあげようって話になりますけど、それって尊いことじゃないですか?

と思いきや、そのようにして他者の苦しみに共感すること自体が自我バージョンの愛なんだとか。もっとはっきり言うと、「私たちは内心、人々が苦しむところを見たくてたまらない。そうすれば彼らを助けることができ、自分の気分がよくなるから」というかなり自己中心的な動機が潜んでいるそうです。
(相変わらず、身も蓋もない仰っしゃりよう。。。orz)

このロジックを綺麗事ぬきで観察すると、これが愛の取り引きの一形態であることが見えてきます。自我が言ってるのは:「私はあなたに苦痛でいてもらう必要がある。あなたが苦しんでいれば、その苦痛を和らげて慰めるために、私は必要とされる。そうすれば私は自分自身についていい気分になるし、あなた自身についてもいい気分にさせてあげられる。これこそが愛なんだ!」と。

しかし問題は、この愛は密かに憎しみで満たされているということ。なぜならそのようなアプローチは「私たち全員に内在するキリストの強さを否定しているから」だそうです。不公平な目に遭って苦しむ人々を “私たちとは違う存在” として見ると、弱者(苦しむ人)と強者(苦しんでいない人)に隔てられてしまいます。すると、私たちの体験レベルでも「神の一なる子」はさらに断片化してしまい、知らずのうちに分離の想念そのものを強化してしまうのだとか。

そのような共感は、自我の弱さに訴えるものだと仰る博士。。。
はふー。。。たしかに。。。

困難にある人々に対して

とはいえ、そこまで言われると「じゃあどうしろと?困っている人や苦しんでいる人を助けずに放置しろってことですか?」っていう疑問が当然出てくるかと思います。でも、そのように行動面から解釈するのもまた的外れだそうで。

No.16330/p255  Once more, we speak of attitude (content), not behavior (form). Jesus does not mean we should not help people in distress…
繰り返しますが、これは私たちの態度(内容)について言っているのであり、行動(形態)についての話ではありません。イエスは「困難な状況にある人々を助けるべきではない」とは言ってません。イエスが言っているのは、「私たちの自我が、いかに苦しみの人々を助けることを渇望しており、他者の苦しみから利益を得ているか」と言うことに気づきなさい、ということなのです。
苦しみがある所には、それを生じさせた原因となる外的状況 (人々、出来事、状況、etc.)がなければなりません。私たちはそのようにして、不公平に苦しむ者たち(いわゆる被害者)と “特別の愛” の同盟を組み、その苦しみの原因となった人々(いわゆる加害者)とは “特別な憎悪” の関係を築くのです。これら全ては排斥と分離に基づいており、そこでは愛は追放されてしまいます。なぜなら、そこには「統合された赦しの知覚」が欠けているからです。(=その苦しみが部分ではなく全体のものであると見るような、天国の一体性を反映した知覚のこと)

コースでは内容と形態を区別することが必須なので、博士はここでもちゃんとレベルの混同をしないようにと釘をさしてくれてました。今回の話でいうなら、例えばマザー・テレサが多くの貧しい人々を助けたように、困っている人々に手を差し伸べる行為自体は問題ではないということになるかと思います。

ただし、その行為が真の偉大さを反映するものになるのは、それが(全ての兄弟をひとつのものとして見る)愛の延長として自然と行われたときなのでしょう。一方、全くおなじ行為であっても、「可哀想だから」とか「人助けしていい気分になりたいから」という動機から行われるなら、それはただ今まで通り自我を温存するだけになってしまうという事ですね。もちろん、そうするのが悪いとかダメとかいう話では全然なくて、ただ私たちが今まで信じてきたのとは全く異なる「真の共感」を選ぶこともできる、という点が重要なのかな〜と。

というわけで、他者に共感すること自体にジャッジを差し挟む必要は全然ない、というのが前提ではありますが「その共感に、どんな動機(自我の目的)が潜んでるか気づいていく所から始めましょう」という部分(内容)のほうが大事なのでしょうね。

旅路における慰め

上記の話にも少し関連しますが、自我の訂正を恐れる自分を裁かないことについてのヒントもありました。博士の優しさは、こういう所に滲み出てるような気がします。

No.16680/p259  We may not be totally ready or even willing to let the ego go, but we can at least begin to look at its thought system…
私たちは完全には自我を手放す準備できていないかもしれないし、それを望んでもいないかもしれません。しかし、少なくとも、私たちは自我の思考体系を見つめて、それが私たちの苦痛の源である、と認めはじめることはできます。

博士の解説は妥協がなさすぎて、今回の話にしても読んでると耳を塞ぎたい気分になること多しですが、それは何のためかと言えば、私たちが聖霊の目的のほうに魅力を感じるようになるためではないかと。
そもそもコースは、学習者にダメ出ししてボコボコにするような教えではないわけで、私たちの歩みを励ましてくれるような箇所もいっぱいあります。中でも、最も慰められる一節としてこれが紹介されてました↓

「自分が不意に引き上げられて実相の中に投げ込まれるのではないかと、恐れることはない。(T-16.VI.8:1)」

この箇所についての解説は次のとおりでした:

No.16834/p264  This is a most comforting line, for it assuages our fear that if we really practice this course we will disappear…

旅の途上においては「もし私たちがこのコースを真に実践したら、私たちは消滅してしまう」という、贖罪に対する恐れが常にあるわけです。でもイエスは、「そのような自己の消滅は、少なくとも旅の終着点(=もはや幻想を維持し続けない段階)にたどり着くまでの間は起こらないから大丈夫」と、私たちを安心させてくれているのだとか。

とはいえ、私たちが実相へと向かう旅の道中において、何も消滅しないわけではありません。その過程において消滅してゆくものとは、罪悪感、怒り、不安、憂鬱、といった苦しみのほうだといいます。なので、これは私たちにとって勇気づけられる話ではないでしょうか。

赦しのプロセスというのは「自我への投資が段階的に減少するもの」であると同時に、「正しい心への同一化が増加する」ものなんだそうです。ということは、自我と聖霊が段階的に反比例してゆくようなイメージでしょうか。私たちは赦しを実践するにつれ、こうした変化を喜んで認識するようになってゆく。。。というお話でした。(°▽°)

*****

JTT本16章で気になったところは以上です。
もちろん、実際はもっといろんな事が書いてあるので、人によって響くポイントは違うんだろうな〜と思いつつ、今回はこのへんで!

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

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