ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20181201

怒りについてのQ&A

11/24。

だいぶ前にテディさんが紹介してくれたワプニック博士のQ&A集、怒りについての質疑応答があって「怒りっぽい自分はよく読んだほうがいいかも」と思ったので、ちょっと時間をみつけて日本語にしてみました。(今のところJACIMのQ&Aリストにはまだ載ってないようなので。。。)

Q #63: We were discussing anger in our study group…
質問63: 私たちは勉強会で怒りについて話し合いました。そして、怒りを「表現」するときは外に向かって行うのではなく、コースが推奨するように「戦場を超えたところ (T-23.IV)」の「高みへと引き上げてもらい、そこから、戦場を見下ろしなさい (5:1)」という態度が望ましいと結論しました。
これはもちろん、あからさまに他者に怒りをぶつけるより全然マシだと思います。ですが、例えば枕に向かって叫んだり、サンドバッグを叩いたりするのはどうでしょう?それもやはり攻撃とみなされるのですか?もし私の怒りがあまりにも強烈で、「高みへと引き上げてもらい、そこから、戦場を見下ろす」など不可能な(むしろ望まない)状態のときはどうすればよいですか?

A: Your question suggests a confusion that many students…
回答:あなたの質問は、多くの学習者がコースを学習する際に陥りやすい混同を示しています。このコースは、内容(想念)のみに関心があるのであって、形態(行動)に関心はありません(聖霊も然りです)。もし私が葛藤を抱え、怒りを感じているなら、その時点で私はすでに平安ではないということです。私がその怒りを行動で表現するかどうかは関係ありません。怒りと攻撃は、心の中にあるのであって、訂正が必要なのはそのレベルにおいてです。もちろん自分を律することによって、相手に直接怒りをぶつける代わりに、枕やサンドバッグのような物体を利用することには一定の利点があります。そうすることによって、あなた自身と相手の両方にとって、行動のレベルにおいて攻撃と報復の連鎖(=互いの心の中の罪悪感が強化されること)を防ぐことができるからです。しかし、それでも攻撃そのものはあなたの心の中で生き延びています。そして、あなたの怒りにまつわる問題は、心という源において対処しない限り、解決することはないでしょう。このことは、あなたの腹立たしい気持ちや攻撃の想念というものが、それを誘発したように思われる他者とは何の関係もない、という認識に関係します。

あなたの怒りについて「高みへと引き上げてもらい、そこから見下ろす」というのは、あなたが「選択する心」であることを思い出すことです。その葛藤について、自我を教師として見るか、聖霊を教師として見るか、選択することができるということです。もし自我と共に「見る」なら、あなたはその怒りの気持ちが何らかのかたちで正当化されると信じているはずです。たとえ行動に移さなくても、自分が何かしら不公平に扱われ、それに対する反応は合理的なものであると感じるでしょう。それがあなたの知覚であり続けるようであれば、癒しは起こっていないということになります。

一方で、聖霊と共にそれを見るなら、問題は他者にあるのではなく、あなたが自身が愛から分離したものとして行った選択こそが問題だった、ということを理解するでしょう。そのような選択は常に、あなたにとって耐え難い罪悪感を生み出します。そうして自分の外側にそれを投影することになります。あなたが「自分を不公平に扱う他者」と見なしたい人に、罪悪感を転嫁するのです。そのようにして、自分自身の愛から分離したいという決断からもたらされた葛藤が、まるで他者によって「引き起こされた」ように感じるのです。もし、あなたが最初から罪悪感を選択していなかったとしたら、彼らの言葉や行為があなたに影響を及ぼすことは絶対にありません。ですから事実のように見えることというのは単に、愛にそむいて自我のほうに向いたというあなたの原初の決断を表しているにすぎないのです。ひとたびあなたがこのような認識を持って、聖霊が差し出してくれる訂正(=あなたは決して愛から分離していない)を受け入れたなら、罪悪感は消滅します。それと同時に、その罪悪感の結果であった怒りや葛藤も消えます。あなたはもう、他者を敵対する者として見なす必要はなくなり、正当防衛としての攻撃も必要なくなります。

ちなみに、コースでは「怒りは決して正当化されない(T-30.VI.1:1)」と言っているにもかかわらず、コースは決して「私たちは怒ってはならない」とは言いません。実際、コースの大半で言葉を割いているのは、私たちが怒ってしまったとき何が起きているのか、どうやってそれを訂正できるのかという話です。これはひとえに、私たちがこれからもずっと怒り続けるであろうこと、そしてイエスが差し出す訂正を私たちが必要とし続けることを、イエス自身がよく理解しているからに他なりません。私たちも、時には怒りの表現にブレーキをかけられるかも知れないし、あるいは為す術もなく怒りを表現せずにはいられないこともあるでしょう。いずれの場合も、「問題(私たちの心の中の罪悪感)」と「解決策(私たちのもつ選択力を認識すること)」は同じです。イエスが求めているのは、私たちが怒りを否定することではなく、彼とともにその怒りを見つめることを通じて、その怒りの真の源を認識することなのです。誤った解釈により怒りを正当化することや、自分自身を被害者として扱うことは、常に意味がありません。

*****

よく考えたら9月ごろにこれを紹介して貰って、スゲー!よし!次に何か腹立つ事があったら、ぜひこれを思い出そう!と思っていたのに、実際には腹が立った瞬間には何もかも忘れていたような気がします。。。(先日のタケノコさん上書き事件の時に読み返せばよかった〜)

博士はたぶんそんな事はお見通しだろうし、たとえ枕をブン殴らないと気が済まないような事があったとしても、いつかこの考えに戻ってくる事ができれば。。。と思いました。

出典: Q&A (FACIM)

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