自然を愛でることについて
以前、花見で桜を楽しんでいた日に、ワプニック博士が自然を愛でることについて何か面白いことを言ってたな~、というのを思い出したので書きます。それは、The Metaphysics of Separation and Forgivenessという講話集の中の一節です。
ちょっと前に「世界は幻想」についてつれづれと書きましたが、そのへんもちょっと絡んでる気がします。つまり、「世界は幻想だから、花見を楽しむのは無意味なのか?」といったようなACIM的な疑問についてどう考えればよいのかを分かりやすく示してくれていると思うのです。
The real value of walking in the beautiful woods is… (Part 4)
美しい森の中を散策することの真の価値は、それが私たちの心の中にある神の愛を思い出させてくれることです。ですから美しい自然の風景は、我々にとって神の愛のシンボルとなり得ます。実際、多くの人々にとって明らかにそのようになっています。我々が象徴(symbol)と実相(reality)を混同しない限り、そのこと自体には何の問題もありません。もし何らかの事情によって私たちが美しい森を散策できなくなったらどうでしょう?それによって私たちが内なる神の愛を得られなくなったりするでしょうか?ですが、私たちが象徴の世界に生きている以上 — 実際、私たち自身がこの思考システムの象徴ですが — 私たちは他の選択肢を表す象徴が必要なのです。「奇跡のコース」もそのような象徴になり得ます — 私たちは「コース」を美しい森の散策の代わりにすることもできます。それは「もし私がひどい気分で落ち込んでいても、ワークブックのレッスンを読めばすばらしい気分になれる」といったような形の考えになるかも知れません。
さて、このケースでも「コース(またはワークブック)」を「森の散策」のときと同じ見方(つまり私の心の中の決断の主体を思い出させてくれるもの、という見方)をしない限り、特別性の罠にはまってしまいます。ワークブックのレッスンや森の中の散策というのは単に、「どこにいて何をしていようが、自分自身の内側に戻り、神の平安を感じるための方法」ということに過ぎないのです。
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。。。途中から、美しい自然を楽しむこととワークブックやることが同義で語られていて、両方ともこの世界において「神の愛を象徴するもの」になり得るというお話でした。
ワプニック博士が言うように、この世界で私たちが美しいと感じるものはすべて神の愛の象徴だと思った方が前向きだしスッキリする気がします。自然とか音楽とか何でもいいけど、それを美しいと思ったときの感動の中に、神の愛の喜びにかすかに触れている部分があったりするのかなー?
てことは、花見も、ドライブも、ハイキングも、温泉も、アートも、私にとっての神の愛の象徴になり得るという事になる気がします。そのとき私はなんか嬉しくて、自分が惹かれるのはこっち寄りの感覚なんだと感じるからです。私と天国の間には幾層もの障壁があるけど、これらの象徴を通じることによって、ほんのかすかにではあるけど、心の中の天国の部分と共鳴する事ができるのかも知れません。(だからって、象徴と実相を混同しないように!との但し書きがありますが。。。)
というわけで、ちょっと季節外れな花見問題の結論としては、「花見etc.が自分にとって神の愛を感じられる行為なら好きなだけ楽しめばよいけど、大事なのはそのとき心の中で感じる部分であって事象そのものではない」って事になるんじゃないかなー、と。
でも私の場合は、好きな象徴をリアルにして、それに依存したりしやすいので(元気な頃は毎週ドライブで山行くとか依存症っぽい事してた…)、すべてのものごとは、あくまで象徴なんだぞってことを肝に銘じていきたいです。
出典: The Metaphysics of Separation and Forgiveness (FACIM)
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