ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20180202

ACIMと医療についての雑感

元はと言うとトベは極度な病院嫌いで、どちらかというと東洋医学(整体)とか自然治癒力を頼みにする派でした。だけど、今こうしてACIM片手に手術を待つ日々を過ごすようになり、癒しとか医療に対する見方が少し変化してきています。思いつくままに書いてみたいと思います。

レベルの混同に注意する
ACIMは病と癒しについて多くの記述があります。そのおかげで救われました~とか言いたいところですが、実際は病気のときに読むと却ってレベルの混同を起こしやすい気がしました。というのは、「なんとか治りたい」というバイアスがかかった状態なので、本来は心のレベルに適用すべき教えを、無理やり肉体レベルに当てはめて解釈したりしがちだったからです。(肉体を無価値とする教えは完全スルーorz)

ACIMが癒しというとき、それは病を選択した心を癒すことについての話です。その観点からだと医療は魔術に過ぎないという位置づけなので、病院に行く自分をみて「ほらやっぱり魔術に頼るような私はダメじゃん」と、自分にダメ出ししたりするわけです。もっというと、「どんな肉体の病も心を癒すことで治癒するってACIMに書いてあるのに、私の病気はむしろ進行してて治癒する気配がないから、やっぱり私には癒される資格はないんだ」と、自分を責めたり裁いたりしてしまうのです。この考えが何かおかしいと思い始めたのはつい最近ですが。。。

よく考えると「肉体が治癒しないのは、心が癒されてない証拠だ」というのは自我の思考そのものです。なぜなら、①問題は肉体にあると宣言してるだけでなく、②肉体の健康状態を、心の状態のバロメータに使おうとしているからです。この考えだと、健康な人はみんな無罪で、病気の人はみんな罪人だということになります。そんなはずはないですよね。

問題なのは、究極の癒しを説くACIMの教えでさえも「自分には癒される資格はない」という解釈に変換してしまうほどに凝り固まった思考回路のほうかも知れません。
(これについての対処法としては、その思考に気づいたら、一歩離れたところからその思考を眺めることで心から自我を切り離すこと、そして聖霊と一緒に微笑むところを想像すること。。。かな。ワプニック博士の教えより)

安易に奇跡的治癒を求めない
巷には、奇跡的な回復を遂げた人の逸話がたくさんあります。末期癌を数日で癒したアニータ・ムアジャーニ本とか、催眠療法で過去世のトラウマを思い出したら腫瘍が消えた話とか。実際、前夫のお義母さんも癌を患ったそうですが、夢の中に天使のような綺麗な人が現れた日を境に不思議と治ってしまったのだという話を、本人から何度も聞いたりもしました。

なので、医学的にあり得ない治癒があり得るという事実に対してはポジティブに受け止めています。ただ、そういう肉体レベルの奇跡的治癒は、それを受け取る準備のできた心に訪れるものだと思うのです。それは決してラクなものではなくて、しばしば「患者が劇的な心理的苦痛を直視した後で、肉体の奇跡的治癒が起こっている」ことは、見過ごされがちな側面だと思います。

ということは、原理的には、病気の原因となった罪悪感を自分の表層意識に浮上させて受け止める(=聖霊に引き渡す)事さえできれば、私にも奇跡的治癒が訪れる可能性があるわけです。だけど、それはちょっと厳しいかな。。。

私の個人的な感覚としては、昨年の夏に半月ほど襲われた死の恐怖(未だに原因不明)あたりが、自分の表層意識が許容できる心理的苦痛の限界っぽいです。あれより大きな苦痛に見舞われたら、たぶん発狂するか自殺するかも。。。
だけど、昨夏の事件は私の罪悪感の氷山の一角に過ぎず、実際には過去生から持ち越してきたもっとおぞましいものが無意識の中に埋もれている気がしてならないのです。

私は過去生を思い出したことはありませんが、例えば助けを求める人を見殺しにした事だってあるかも知れないし、レイプなどで誰かを虐待したかもしれない。そんな恐ろしい罪悪感に、今の私が耐えられるとは思えません。だいたい直視するのが死ぬほど恐ろしいからわざわざ抑圧しているわけで、自分に受け止める準備ができるまでは明かされないほうがいい事とか、病気として体験するほうがマシかもしれない事だってあるかもしれません。

何が自分にとって最善か分からない以上、病気でもなんでも、安易にミラクルな展開を求めない落ち着きを養う必要があると思う今日このごろです。

ゲイリー本がわりと現実的
病気や健康に関することで、肉体レベルでの現実的なアドバイスが多いのはやっぱりゲイリー本かなと思います。「神の使者」にあるアーテンの次の言葉は、医療と無意識の恐怖についてコンパクトにまとめられています:

神の使者 10章 p390
『とても重要なことを言っておこう、ゲイリー。正しい心でいるというのは、必ずしも医療品を投げ捨てたり、医師やセラピストにかかるのを拒否することじゃないんだよ。(中略) ある薬を飲んで気分がよくなったのなら、それは無意識の心が受け入れられると感じたからだ。言い換えれば、ある種の医療は恐怖なしに受け入れることができる。
効果があるように見えるものは何でもそうだ。救済をのぞけば、すべて一時的な効果しかなくてもね。ほとんどの場合(きみ自身の場合でも)、患者が正しい心の癒しとある種の魔法—伝統的な医療業界の治療でもその他のケアでも—を組み合わせることを認めるほうがいいんだよ。』

これは私のようなビギナーにとってすごく大事な話だと思います。ACIMの癒しの解釈でレベルの混同にハマって凹むくらいなら、アーテンのこの言葉を何度も思い出したほうがよっぽど建設的です。たとえそれが肉体レベルの解決策に過ぎないとしても。

余談ですが、それに続く文章には昔から違和感があって。。。(コレ↓)
『そうすれば、勝手に治ってしまったら感じるような恐怖なしに、心は治療を受け止められる。』
いやいや、勝手に病気が治ったら誰だってすごく嬉しいでしょ?どうして恐怖を感じる必要があるの?って思ってたんですよね。でも最近やっと、これならあり得るなーと思えるようになったことが。

原文は、”That way the mind can handle getting well without the fear that might accompany a sudden and spontaneous healing.” と書いてあります。もしかするとアーテンは、奇跡的治癒が起こる前に患者がしばしば直視する心理的苦痛(罪悪感や恐怖感)のことを指して「治癒に伴う恐怖」と表現したんじゃないかなと思うんですがどうでしょう。

つまり、薬剤や手術といった医療(ACIMでいう魔術)を選択することによって、病の源泉である激しい罪悪感や恐怖に直面することなく肉体的な癒しを受け入れることもできるという話ではないかと。それは心の癒しとは違うけど、この世界での治療が肉体レベルで無意味というわけではないのだから、常識的に医療を受け入れなさいという事でしょうか。医者だったアーテンの言葉なので何か説得力があります。

ちなみに、医療と赦しを組み合わせることで、肉体の治療が心の癒しの象徴になり得る、という話は先日(1/10)のアレックス漫画にもあって、トベにはすごく励みになりました。あと、先日(1/17)のハシゴと階段の夢とか、なにかと医療に肯定的なインスピレーションを感じる事が増えてきたようにも思います。

去年まで、病院行くとかあり得ないと思っていた自分が、ここまで医療を許容できるようになっただけでもすごい変化だなーと思います。どのみち、与えられた時間を赦しに費やす以外に有意義な人生の使い道はなさそうですが。。。

※追記:肉体的な病気を薬剤などで治療すること(魔術の使用)については、ワプニック博士が「赦しのカリキュラム」の質問29(p126-132)で詳しく解説しています。併せてどうぞ。

出典:神の使者 (河出書房新社)

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