ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20210711(x2)

読書会 JTT-21章(1) 視覚に対する責任

7/4。

そんなこんなで、JTT本のほうは室長コンサルの宿題の合間に少しずつまとめております。よく見たら、しばらく開いてなかったテキストが机の上でうっすらと埃をかぶってました。もうそんなに時間経ったの!?はやっ!Σ(゚Д゚)

すっかり忙しくなってしまいましたが、室長コンサルもミシン練習もJTT本も全部続けたいので、目標の立て方をすこし具体化することにしました。なんとなく時間があるときに+気が向いたら+一気にやる、方式だと遅延が発生することが良く分かったので、「達成可能な目標を+達成可能な期日を定めて+少しずつ進める」方式にチェンジしてみようかなと思っています。うまくいくかな(゚∀゚)

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 21 — Reason and Perception (1)

21章のタイトルは「理性と知覚」ですが、理性のほうは “Reason(大文字)” という言葉が使われています。reasonという言葉は通常は「理由・動機・原因・根拠」だけど、他に「理性・理知」という意味もあり、ここでは後者の用法です。ただ、両方の意味がうまくかけてある箇所もあって興味深かったです。たとえば、There is no reason in insanity…(T-21.V.8:6) などはどちらの意味でも通じるなあ、とか。そんな些細なところに、原文で読む面白さを感じます。

視覚に対する責任

今回読んだところでは、「視覚に対する責任(T-21.II)」というセクションの解説が印象に残りました。奇跡講座では何度も言われていることだけど、「この世界で起こるかに見えることは、酸いも甘いも自分が望んだ通りに知覚されている」というお話の深堀りです。これ、何度言われても忘れちゃうんだよなぁ(特に酸い状況のときは…)。

No.21968/p147 We begin this section with “The Responsibility for Sight”, frequently cited by Course students, albeit incorrectly. In saying we are responsible for…

このセクションで「私が見ているものについての責任は、私自身にある。(T-21.II.2:3)」と書いてある箇所は、学習者によってよく誤った形で使われている、という博士のご指摘がありました。これは「あの戦争の責任は私自身にある」とか「あの災害も自分の心に原因がある」というような、外的な出来事そのものを自分の責任だとするような姿勢を指しているのではないかと思います。というのは、博士が次のように説明していたからです:

私たちは自分たちが見るものに責任がある、と言うときにイエスが言っているのは、それを「どのように」見るかということについて言っています(=知覚は解釈である)。知覚とは、私たちの目が外側の世界に何を見るかということではなく、見たものに対する心の解釈を指しているのです。それは:分離の夢を続けようとする自我の目的による解釈か、罪悪と恐れの悪夢から目覚めさせようとする聖霊の目的による解釈か(のどちらかです)。

つまり上の例でいうなら、他国の戦争でさえも自分に責任があるのだから反省しろと言っているわけではなく、その戦争について自分がどのように解釈しているか?という部分を指して「自分の責任」と呼んでいるということなのでしょう。(例えばその戦争を、自我の解釈だと「邪悪な人々が仕掛けた恐ろしい出来事」と捉えるのか、あるいは、聖霊の解釈だと「一なる神の子みなが共有する愛を求める声の象徴」(詳細)とかになるのかな…)

これについては「いやいや世界は夢なのだから、他国の戦争も飢餓も気候変動もすべて、我々がそういう夢を選んだという責任があるでしょう」というご意見も尤もなので、それについての博士の説明も紹介しておきます。

No.22002/p148 On the metaphysical level, since this is our dream and we are one dreamer, everything that happens here is our choice, but…

ここで博士はたしかに「この世界が我々の夢であって、我々はひとつの夢見る者である以上、ここで起こる全ての事は我々の選択である」と言っています。その一方で博士は、「ただしそれは、形而上学的なレベルにおいての正論であって、我々が個別の人生を生きていく上で助けになる考えではない」と釘をさしているのでした。(たしかに、カラスが黒いのも郵便ポストが赤いのも全部自分が悪いんだ…みたいに、あらゆることで自分を責める姿勢はなんだか苦しそうだし、心を病んでしまうかも)
そこで博士は、形而上学的正論よりもっと人生に役立つ実用的なアドバイスとして「(個別の人生にとって)助けになることは、我々自身が出来事に対する自分の反応に責任があると知っていること」だと仰っていたわけです。前者と後者では「責任」の意味合いが違うけど、どちらが正しくてどちらが間違っているという話ではなく、ただレベルが違う(形而上レベル vs. 実用レベル)という話だったんですね。

例えばもし、出来事に対する反応が「私は不公平に扱われている(=怒りや不安の正当化)」というものなら、その理由はひとつ。→その怒りや不安を自分が欲しているから、ということになります。いちどそのことに気づいたなら、それを欲するのは苦痛だからやめたい、という建設的な選択肢も見えてくるんじゃないかと。
これはそのまま「他者が何をやらかしてるかを問題にする必要はない」という見方にも繋がっていくので、たしかに役に立つと思います。

というわけで「視覚に対する責任(T-21.II)」セクションのまとめ。
私たちは自分がどう感じるかのすべてについての責任を受け入れる必要があるそうです。なぜなら、他の誰も私たちが望まないことを経験させる力はないから。したがって、この世界のレベルにおいては、私たちは他者の自我についての責任はなく、自分が彼らにどう反応するかに責任がある。。。というお話でした。(No.21995/p147-148、No.21982/p147)

準備が出来ていなくても

もうひとつ、短いけど励みになる箇所があったのでメモしておきます。

No.22661/p167 The part Jesus speaks of is the right mind (the Child described in Lesson 182), which says: “I no longer want the ego. I may not be ready to give it up…

これは博士が「内側を見ることへの恐れ (T-21.IV)」について言及している箇所ですが、その中で心のなかの正しい部分がなんと言っているかを代弁したものが次の箇所です:

「私はもう自我は望まない。私にはまだそれを完全に手放す準備は出来ていないかもしれない。しかし私はもうそれを望まないと知っている。そして、私がまだ神の子全体の一体性を受け入れる準備ができていなくても、私は兄弟を攻撃することは望まない。」

すごくシンプルな表現だけど、ここはなんか刺さりました。なにしろ、しょっちゅう動揺している自分は、明らかにまだ準備が出来てないよなーという自覚アリなので。。。だけど、これを読んだとき「それでもOKだよ、どのみちもう後戻りすることはないのだから、無理して背伸びしなくても大丈夫だよ」と言ってもらっているように感じられて、なんだか少しほっとしたのでした。

特に最後の「私は兄弟を攻撃することは望まない」という部分のニュアンスが優しいなあと。例えばここで「私は兄弟を攻撃しない」と断言しちゃうと、噛みつき魔の私は真っ赤なウソになってしまいますが、「私は兄弟を攻撃することは望まない」という言い方であれば、そうね、そうかもね、うっかり噛み付いちゃうこともあるけど、本当はそんなことは望んでないよね、次から気をつけようね、と思える(気がする)。

*****

JTT本21章では他にも「未回答の最後の質問 (T-21.VII)」という大物がありまして、”not no (いいえではない) ” というちょっと深めのキーワードが登場したりするのですが(T-21.VII.12:4)、これは文字数の都合で次回にまわしたいと思います。

それはそうと、ニート生活2年目も過ぎ去り貯金がやばい今日このごろ。懸案だった両親のワクチン接種(2回)も完了したことだし、そろそろ冗談抜きでバイト始めたいなと思っていろいろ比較検討しております。

実は近所にやや専門性の高い高時給バイトがあることが判明しまして、頑張れば時給アップも狙えると評判の有名店です。バイトにしては拘束時間長めですが、ガッツリ働けばそこそこ安定した収入も確保できそうなので、応募するかどうか迷い中。。。(でも即戦ハイレベル人材求めてる可能性大なので、ニート風情が受かる保証はないのでした)

というわけで、どうなる私!?次回 Chapter 21 (その2)に続きます!

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

コメント

  1. こんにちは、偶然通りかかった者です。tobbeさんの文章も視点もユニークで惹きつけられ、ブログを拝見させて頂いております。読んでいてすごく楽しいです!ここ数日、赦せないことがあり、すごく苦しかったのですが、tobbeさんが励みになる箇所として挙げられている文章を読んで号泣してしまいました。私にとってもとても励みになり救われました。大変感謝します。ありがとうございます。

    • タンポポさん、はじめまして!嬉しいコメントありがとうございました(ToT)
      頂いたお言葉から、ワプニック博士の励ましの言葉を心が震えるレベルで受け止められたことが伝わってきて、むしろ私のほうが感激しております。こんな拙い表現で読書メモを公開するの恐れ多いかも…と毎度ビビりながらやってる小心者にとっては、すごく励みになりました。こちらこそ、タンポポさんに大大大感謝です✨

  2. 私の母親も、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」とかっていっていましたが、あれは間違いなく、この幻想世界を作り出すことで自我として安定を図ろうとしていることへの罪悪感なんですね。

    ですが、それを作りだしたのは、この世界の背後に位置する、もっと大きな自分なのであり、この個人として自覚されている自分ではないんですけどね。

    ただし、個人として自覚されている自分が味わっている苦痛が、もっと大きな自分の作出の原因となっているのも事実ではあるのですが。

    とかいう思考が普通になっているので、私はますます危ないやつですわ(笑)。

    ところで、Tobbeさんの「かみつき癖」というのはつまり、あれですね、甘噛みというやつですね?

    つまり、うれしくなるとかみつきたくなるというやつです。

    ですが自分ではそれを攻撃だと知覚してしまうという、何かニュアンスを反転して知覚してしまうトリックが、この世界を維持しているみたいです。

    それが見えてくると、もうなんだかいろいろな物事がおかしくてたまりませんから、是非ともこれは体験するといいですよ、と、ブログでも書いたりしたのですが、結局、誰にも伝わりませんでしたが。

    残念ですわ。

    相手を本気で攻撃したくなるというのは、実は、それだけ相手と本気で関わりたいからなんですけどね。

    そこに自我の皮が被さっているから、本当のところが何もわからなくなってしまっているという、この世界の悲しさです、はい。

    なので、その本気こそが愛の表現なのであり、本当の攻撃というのは、実は、シャットアウトなんですけどね。

  3. 追記ですが、それを書いたブログは削除してしまいました。
    あまりにも人々から排除されすぎたために、精神状態が危なくなってしまい、そのときに削除しました。
    今のブログにはまだ書いてありませんが、いずれまた書くつもりです。

    • おおーするどい、仰るとおりですー。ここ数年もろもろご指摘ありまして、他者との関わりにおいて諸刃の剣を抱えているという自覚はあります。使い方次第なんだなあと。
      それにしてもhuuさんが既存ブログをたたむほどの事があったと知って驚きでした。私だったら大暴れ案件ですが、クールに対応されててすごいです。しかもなんと、今月から新ブログをスタートされたんですね。拝見しましたよ〜。セキュリティ高めにされてるようですが、私には問題なしです。頑張ってください!

  4. ありがとうございます。
    あはっ、愛が開示されると表出するのは、まずは、自分が潜在的に徹底的に自分に向けていた刃なんですよね。
    なのでそれが他者への攻撃であるかのように感じられますが、とどのつまり、自分で自分を攻撃しいていたものが外に出てきたということなんです。
    さらには、自己攻撃は実は、神には「そぐわない」と感じる自分をなんとかして「なかったこと」にしようとするという、つまりはそれもまた神への愛から発していたという。
    なので、神への愛ではないものは、本当にどこにもないんですよ。
    単に、神は攻撃なんてのは根本的に理解できないという、ただそれだけなんです。
    攻撃を保持していると自分を神から隔てるよ、というだけであり、しかも神は全く何もしていず、それはただ神の子が一方的に萎縮しているだけなので、むしろ神からは、なんで神の子が小さくなってしまっているのかが理解できないわけなんです。
    まあ、『天国から離れて』のどこかに書かれていましたが、長い間使っていなかったさび付いた水道をひねったら、まずは赤い水が出てきますが、しばらく出し続けていれば、やがて澄んだ水が出るようになる、ということです。
    私は、この本が出る何年も前に、泉を掘り当てたときは、最初は濁った水が出るが、出るに任せていれば、やがて澄んだ水が出るようになるという、本質的に同じインスピレーションを受け取っていたので、ああ、ヘレンさんも同じことを受け取っていたんだなあと思いました。
    なので、体験や実感として神の愛がわかってみると、奇跡講座の読みが180度かわりますから。
    イエスさんから手渡されたバトンを受け取ったら、後はただ走るだけですよね。
    なのに、バトンを分析したり、バトンについて解説したり教えたり、あげくの果てはバトンを崇拝したり、さらには、「バトンを受け取ったのは「選ばれている」からだ」とか(自分でバトンをとりにいったくせに)、「ここはすでにゴールなんだ」と自分に念じ始めたりしている人までいて、なんかこの世界っていったいなんなんだろうと思いますw
    バトンを受け取ったということは、次は自分が走る番だ、ということなんですけどね。
    ま、自我の重力圏内から脱出するという、一つの難関が終わったときは、「終わったなあ」と感じる自分の方が「終わって」いるんだなあとわかりました。
    後はただ神への道を歩いて行くのみです。
    といっても、世界も肉体もまだそのまんまんですけどね(笑)。

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