読書会 JTT-19章(2) 平安への障害 C-D
(続き)
2月はJTT本19章読み進めのかたわら、ひきこもり時間を有意義にすべく、新しく普及しつつあるデザイン系ツールの独習などをしてました。。。というどうでもいい話はおいといて、続きをいってみます。
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
Chapter 19 — The Attainment of Peace (2)
19章後半です。前回は「平安への障害」A-Bをメモしたので、ここでは残りのC-Dをみていきたいと思います。
C. 第三の障害 – 死の魅力
平安への3つ目の障害は「C. 死の魅力」で、テキストにはこう書かれています:
「自ら死を選択しなければ、誰も死ぬことはあり得ない。死に対する恐れのごとく見えるものは、実は死の魅力である。(T-19.IV-C.1:4-5)」
いやー、自ら死を選択って言われるとまるで自殺のような印象がありますが、
よく考えたら肉体である以上は誰も死は避けられないわけで、人間として存在していること自体が一種の自殺と言えるのかもしれませんね…。
No.20083/p89 It is for the purpose of affirming separation, ascribed by the wrong mind to the body, that enlivens the body in our experience,…
博士の説明だと、死とは分離を支持する目的のものだそうです。その目的は誤った心から肉体へと受け継がれ、私たちの肉体としての体験に(誕生→人生→死という)意味を与え、活気づけるものなのだとか。
しかし、死というのは単なる幻想の崇拝でしかなく、それ自体にはなんの力もないといいます。仮に力があるとしても、それは分離/罪悪/懲罰の想念を保持したいと願う心から与えられた範囲内だけ、という事なんだそうです。
とはいえ私たちが「死への声」を選択するとき、その物理的な影響(肉体の死)は避けられず、私たちを絶望に繋ぎ止めることになるのだとか。(一方、私たちが「生命への声」を選んだなら、死は単なる不可能でしかなくなり、希望が優しく戻ってくるとのこと…)
あともうひとつ、後半の「死に対する恐れのごとく見えるものは、実は死の魅力である。(T-19.IV-C.1:5)」という謎めいたひとことが気になってました。
確かに死ぬことを恐れるとこまでは分かるけど、実はその恐れが魅力なんだと言われてもピンときません。それについてはこんな説明が。
No.20102/p90 This “central dream from which all illusions stem” (M-27.1:1) is seeming proof that the ego is right and God is wrong,…
マニュアルに「死とは、全ての幻想を派生させる中心的な夢である(M-27.1:1)」という箇所があります。これは、心が死を夢見ることによって「自我が正しく神は間違っている」ということを証明できるからだそうです。もっというと、肉体の死は「神から分離した子は、永遠の生命(いのち)に対して勝利した」という信念を反映しているのだとか。ひいいいΣ(゚Д゚)
まさか神への勝利を味わいがために死が必要だったとは…。
ここでいう死の “魅力” というのは「神に勝った感」のほうだったんですね。なにやら我々の狂気がハンパないということがジワジワ伝わってきます。ちょっともうスケールでかすぎて実感わかないですけど…。
D. 第四の障害 – 神に対する恐れ
最後の、平安への第四の障害は「D. 神に対する恐れ」です。なぜこれが一番最後かというと、これが全障害のなかでもいちばん根深いやつだからであるらしい。テキストにこうあります:
「…それは、神の記憶がまったく忘れ去られたかに見える重度の記憶喪失であり、あなたの自己をあなたから隔てる深い亀裂、すなわちあなたの解離における最後のステップをなす神への恐れである。(T-19.IV-D.3:4)」
ここまでの障害A-Cで見てきたのは、自我や死にまつわる恐れがメインでしたが、障害Dまで来るともっと深い秘密が暴かれます。それは、「じつは私たちは自我も死も恐れてなくて、むしろ分離を保ってくれる友として見ている」ということです(T-19.IV.4:4-5)。
No.19833/p82 We fear him and his thought system of life. Our “life” as an illusory self, cruel though it may be, is far more dear…
誰も心の奥底では自我も死も恐れてはいない — けど、私たちはイエスとその生命(いのち)の思考体系を恐れているのだそうです。だからこそ、私たちの幻想の自己としての生命(小文字のlife)は、それがどんなに過酷なものであっても、真の生命(大文字のLife)そのものより遥かに愛しいのだとか。まぢか…orz
それゆえ、私たちはこの狂った嗜好(insane preference)を見つめる必要があるのだといいます — 少なくとも、それに反する選択ができるように。
まあ、たしかに障害A→Dと進むにつれて、狂気の度合いが増してる感はありますね。。。そして、その順番はそのまま「自覚しにくさ」の順番でもあるように思えたのでした。
あともうひとつ。
この平安への第四の障害Dは、これまで見てきた全ての障害の “まとめ” のような性質も持っているのが興味深いです。
特にT-19.IV.5は、博士が「ベートーヴェン段落」と呼んでいる箇所だそうで、ベートーヴェンが交響曲第9番で工夫した遷移と同じ動きが見られるとのこと(この段落を、第九で有名な第四楽章に重ねて説明してました)。つまり、前述の3つの障害A-Cそれぞれに言及しながら、4つ目の障害Dでそれらすべてが真に否定したがっている神の愛へと結びつけていく、という流れです。そのベートーヴェン段落、具体的に見ていくとこんな感じ:
「①平安を取り除き、聖霊を追い払いたいという願望は、自分は聖霊を愛しているという静かな認識を前にすれば、消えていく。②肉体の称揚は、あなたが霊のほうを好むことにより、放棄される。あなたは霊を、肉体には絶対に抱くことのできない愛で愛しているからである。そして③死の魅力は、愛の魅力が働き始め、あなたに呼びかけるとき、永遠に失われる。(T-19.IV.5:3-5)」
上記の下線①は、平安への障害「A. それ(平安)を取り除きたいという欲求」を表してます。下線②は「B. 肉体は、それが提供するもののゆえに価値があるという信念」。下線③は「C. 死の魅力」を表している、という具合です。言葉を変えてあるから一読しただけでは気づかなかったけど、よく読んだら確かにそういう意味になってるかも。。。!
そして大事なことは、A-Cの障害のどれであっても、愛のもとでは等しく消え去るという点だと思います。これは障害Dについても同じで、ベートーヴェン段落の冒頭にもまさにそのことが:
「平安の流れが越えてゆくべき障害はどれもみな同じようにして克服される。すなわち、それぞれの障害を生じさせていた恐れがその向こうにある愛に屈し、それにより恐れは消えていく。④この障害についても同じことが言える。(T-19.IV.5:1-2)」
下線④の部分が、最後の障害である「D. 神への恐れ」のことですね。そういう風に読んでいくと、確かにここは最後にふさわしい力強い段落だなぁと思えてきたのでした。
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。。。というわけで、主に19章の「平安への障害」を中心にみてきましたが、実際には他にもおおおおと思った箇所がいろいろありました。でも全部を書き出すとエンドレスになるので、今回はこのへんにしときます。
それにしても「平安への障害 A-D」をこんなに吟味することになるとは思わなかったなぁ。個人的に章立て通りに整理したかったので、あえてA→Dの順番で並べてみたんですけど(まさに形態にフォーカスした結果…)、実際にはJTT本では順番とか関係なくA⇔Dを行ったり来たりしながら解説されてました(博士は内容だけにフォーカスしてるからですね…)。なので、いつになく何度もJTT本を読み返しちゃったかも。
来月はJTT本20章いってみたいと思います!
いよいよ20番台か〜。。。ここまで来れるとは思ってなかったなぁ。。。
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
コメント
トベさん
いつも、貴重な要約を読ませてくださり、本当にありがとうございます✨
理解したいと思いつつ何度読んでも?だった「平安への障害」が少しとりつきやすくなった気がしました🍀
お仕事関係のお勉強もされつつ、翻訳もしてくださるトベさんに頭が下がると同時にとっても感謝✨しています。
ふうせんさん、ありがとうございます!いつも励みになります。
「平安への障害」を何度も読み返されているとはさすがですね!私は今回JTT19章に入るまで、そんなセクションがあったことも忘れておりました。あーはははは(汗)
まあそんな感じで、こっちはあくまで読むのが精一杯…な感じのショボい読書メモにすぎませんが、そのへん割り引いてご笑覧いただければ嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします😊