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奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20210313(x2)

読書会 JTT-19章(1) 平安への障害 A-B

2/26。

2月も相変わらず緊急事態宣言が続いていてアレな感じだったので、ひきこもりモード全開でJTT本19章を読んでおりました。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 19 — The Attainment of Peace (1)

19章にはたった4つのセクションしかないと思いきや、実は最後に「IV 平安への障害」という大物がドーンとあって、それがさらにA、B、C、Dの4つの障害に分かれています。しかし、JTT本のほうでは必ずしもその順番で解説されている訳ではなく、博士が選んだいくつかのテーマに沿ってAからDまで行ったり来たりしながら紹介されているのでした。

とはいえ3年生の立場でまとめるとしたら、やっぱり最初はA→B→C→Dの順番に読んでみたい気がするので、まずは前半のAとBを見ていくことにします。

A. 第一の障害 – それを取り除きたいという欲求

「それ」というのは平安のことなので、ここは「A. “平安” を取り除きたいという欲求」とも言い換えられるわけですが、なんかあまりピンと来ません。あれーおかしいなー?どちらかというと平安を望んでいるつもりなんだけどなあ?

No.19719/p79 Most students would greet this first obstacle with incredulity. After all, no one in his right mind would wish to be rid of peace…

そんな私の思いを見透かすかのような博士のひとこと。「ほとんどの学習者はこの第一の障害について疑いを持って迎えるでしょう」ですって。ひゃー、バレてる。

まあ確かに、正しい心の状態にある者であれば誰も「平安を取り除きたい」とは思わないに違いありません。しかし実際のところ、正しい心の状態にいる人なんてこの世に何人いるでしょう?。。。と言われてみると、うーん、しょっちゅう腹を立てている私が正しい心にいるわけないな〜という気がしてきた。(^_^;)

つまり私は表向き平安を望んでいるつもりだったけど、実際には誤った心の思考体系による葛藤のほうが救済で有り続けている、ということになるようです。その理由は、”自分” という個別の実在性がそれにかかっているから(腹を立てる理由があるかに見えてるあいだは、自分は正しくて相手が間違ってる=自分は存在する、と言えますもんね…)。

ということは、もし私が本当に(真の意味で)平安を望むなら、まず心の中で “その平安を拒んでいる部分” を特定していくところから始めなければならないとのことでした。たしかに。。。

「平安への障害 A」にはこんな問いかけがあります:

「どうしてあなたは平安を家から追い出したいのだろうか。あなたと共に住むために、平安が何を取り上げると、あなたは思っているのだろうか。あなたがそれほどまで支払いたくない対価とは、何なのだろうか。(T-19.IV-A.2:1-3)」

これに対する私の正直な答えは「私は平安を望まない」だったんですね。なぜなら平安をもたらす贖罪(Atonement)とは、すべての敵対関係に終止符を打つような “対立のない状態” でしか見出すことができないから。。。

そして、その真実に対抗するために築いた “個別の自己” という幻想こそが、「私たちが支払いたくない対価」なのだそうです。これには、分離によって罪悪を投影することや、そもそも原初から自我の嘘を信じ続けている、といった諸々も含まれるとのこと。うーん、最初に思ったより根が深い話でした。

No.19740/p79 Consequently, the first obstacle to peace begins where the ego’s strategy leaves off, the mind’s desire to retain its separate state…

したがって、平安への第一の障害「A. それ(平安)を取り除きたいという欲求」は、まさに自我の戦略が雲隠れしたところ(罪悪への信念によって分離した状態を保ちたいという願望)から始まるのでした。

いままで「平安を取り除きたい欲求」と言われてもピンと来なかったけれども、それは「個別の自己を保ちたいという願望」のことだよ、と言われたら超心当たりがあります。だからこれが、平安が最初に克服しなければならない障害として、A-Dの先頭にあるわけですね。

B. 第二の障害 – 「肉体は、それが提供するもののゆえに価値がある」という信念

次の「平安の障害 B」にはこうあります:

「平安が越えていかねばならない障害の二つめは、第一の障害とも密接に関係している信念、「肉体は、それが提供するもののゆえに価値がある」というものである。なぜなら、ここで、罪悪の魅力が肉体の中に顕現され、肉体の中に見られるからである。(T-19.IV-B.1:3-4)」

日ごろから肉体が損なわれる事態(病気や怪我)は避けたいと思っているので、肉体に価値があるという信念は体感的に分かる気がします。でも、罪悪の魅力が肉体の中に顕現されるってどういうことだろう?

No.19786/81 Hellbent on keeping us in the hell of its own thought system, the ego convinces us of the body’s value in “proving” that the thought of guilt is real, except that now it is seen in another’s body…

これについては、こんな説明がありました。自我はなんとしても私たちを自我の思考体系に留めておくために、罪悪の実在性を “証明” することを通じて「肉体には価値がある」という説得するのだと。つまり肉体のお陰で、その罪悪は私たちの心の中ではなく、他者の肉体に見られるようになる(=自分は無罪だと思える)ので、これは画期的な発明だといえます。ということは、肉体と罪悪はセットで機能しているということですね。

あと、ここには「i. 苦痛の魅力」という小セクションがあるのですが、苦痛に魅力があると言われてもよく分からないんですが?これはどういうことでしょうか。。。と思ったら、こんなお話が:

No.19799/p81 We shall return presently to the theme of pleasure and pain, one aspect of which is that we gladly suffer pain so we can attack…

苦痛の魅力というのは「快楽と苦痛」というテーマに繋がっていて、それによると私たちは(内心)喜んで苦しみに苛まれる、というのです。つまり自分が被害者になることによって「おまえのせいで私は苦しむ羽目になった」と言えるから。ひいいい、苦痛の魅力ってそういうこと!?

私たちは、他者の手にかかって苦しむこと、裏切られること、虐待されること、不公平に扱われること、…を密かに切望しており、実際そういったことが大好きなんだとか(マゾか)。こうしたことは私たちに「私はいま苦しんでいるかも知れないが、私の快楽は確実にやってくる。なぜならおまえは後に罰せられることになり、私は解放されるから」という、意地の悪い楽しみ方を無意識のうちにしているらしい。

ってコレ、離婚後に荒れてた時の私の思考回路そのものではありませんか。心当たりが山ほどあることに気づいてしまいましたよ…orz
でもそれだけじゃなくて、快楽を追求することで苦痛を見出すという逆パターンあるそうです。

「肉体を通して楽しみを求めるなら、苦痛を見いださずには済まない。この相関関係を理解することは非常に重要である。(T-19.IV-B.12.1-2)」

これはどういうことかというと、「肉体が快楽をもたらす」と考えるとき、その快楽は苦痛を伴わざるを得ないという話です。こちらはちょっと形而上学的なので、順を追ったほうがわかりやすいかも:

①私たちは肉体を実在させ、肉体の源である自我の思考体系を実在させる。
②それが真の喜び(true pleasure)である神に対する防衛となる。
③自分自身にこの喜び(true pleasure)を否定し、代わりに世界の中で快楽(pleasure)を探そうとすると、私たちは愛の不在を強化してしまう。
→これこそが苦痛である。

なるほどーと思いましたが、この「愛の不在」という苦痛のほうは、真の喜びとの対比においてのものなので、自覚しづらいやつかもしれません。

いずれのパターンも、肉体が提供するものを煎じ詰めると “苦痛” であるということですね。。。しかし、だからといって餓死して肉体を放棄する訳にはいかないので、どうしたらいいんでしょうか?という疑問に対しては:

No.20003/p87 To restate this central point, we are not to deny the body or starve its impulses. We simply recognize the body’s purpose, and as we…
…言い換えると、私たちは肉体を否定したり、肉体的な欲求を(禁欲によって)飢えさせるべきではありません。私たちはただ単に肉体の目的(※)を認識するだけです。そうするにつれて、私たちの肉体との同一化が必然的に弱まってきます。それから、私たちはこの世界で違った生き方ができるようになるのです。なぜなら、私たちの焦点は、肉体の「感情的または身体的な必要性を満たすこと」ではなく、私たちの「贖罪の必要性を満たすこと」に移るからです。

ここで博士が言っている「肉体の目的(※)を認識するだけ」という方法論はとてもシンプルに聞こえるのでちょっと拍子抜け。(でも、一見シンプルそうなことも、365日間断なくやるという話になると、また違った次元の難しさがあるように感じるのでした)

改めて、その「肉体の目的」って何だろうと思ってざっと見てみると、いろんな表現があることに気づきました。どれも同じことを表しているのでしょうけど、こんな感じです:
※肉体の目的=罪悪を実在させること、心を無くすこと、特別性、分離、攻撃。

日々そのように肉体の目的を認識していって、もし博士のいうように肉体との同一化が弱まってきたとすると、いままで「あいつはボコって成敗するしかねえ」(→身体的/感情的な必要性を満たしたい)と思っていたような事も「すべてを無罪と見たい、赦したい」(→贖罪の必要性を満たしたい)という思いに変わっていくんでしょうか。。。

*****

「平安への障害」は結構ボリュームがありまして、これで終わりではありません。次回はCとDを見ていこうと思います。

というわけで、次回 Chapter 19 (その2)に続きます!

コメント

  1. True Pleasureの存在が、見えてないと、いろんなことむさぼろうとするのだなあ、と思いました。Ture Pleasureとは。いずこに。という問いがまた、一枚の隔てなのかもしれませんが。

    • 私もそれ思いました…。そもそもtrue pleasureというのが、自分にとっては未だに体験としては分かってないんだなぁと。だから愛の不在は苦痛なんだと言われてもピンと来ないのですが、それはそれで受け入れるしかないですね。

      一方で、その完全なる愛の瞬間を垣間見たことのあるひとにとっては、もういちどそれを体験したくても自力ではどうにもならない苦しさがある、と聞いたことがあります(Togoさんも神秘体験あったのですよね)。ひとたびその大いなる愛を知ってはじめて、愛の不在が苦痛として認識されるのかもしれませんね。

  2. 福音のどこかに、イエスが
    ”自分の命を得ようとするものはそれを失う”と言っているのですが、自力でそれをもとめていくというところの苦しさ(無用さというか 不毛さというか)を言っていると思いました。神秘体験のようなものを少年のときにしてしまった結果、それの再現を求めている人生は、覚せい剤をもとめて生きているのとあんまりかわらんようなものであるし、ちら見せしておきながら、そんなとこには命はありまへんで、という奇妙なパラドクスがあります。

    • やはりTogoさんも、そのような道を辿ってこられたのですね。そのような体験をされた方にとっては、それが強力な道しるべとなって、求道の大きな原動力になるのだろうな…というような事を思いました。私などはその道しるべを知りませんから、求道も「飽きた、やーめた」でやめてしまえるのですが、体験的に知ってしまった人はそうはいかないのでしょうね!

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