ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20210212(x2)

読書会 JTT-18章(2) 何をする必要もない

(続き)

JTT本18章、The Passing of the Dreamの続きです。前半では肉体についての解説がありましたが、それを踏まえたうえで「私は何をする必要もない(T-18.VII)」というちょっと分かりにくい話の真意がクリアになっていくような展開でした。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 18 — The Passing of the Dream (2)

他者の霊性の道を裁かないこと

18章には「私は何をする必要もない / I Need Do Nothing (T-18.VII)」というセクションがあります。ここは他の霊性の道との違いについての記述もあるのですが、だからこそ他者の道を裁くような見方には気をつけましょう、という話が印象的でした。

このセクション(T-18.VII)で気になったところを3つほど並べてみます:

①「このコースは彼らが時間の中で学んだ以上のことを教えようと試みるものではないが、時間を省くことは目指している。(T-18.VII.4:5)」

これは奇跡講座の利点のひとつとされる「時間の節約」についての言及です。でも、他の霊性の道よりも近道ができるから奇跡講座が最も優れてる、ということにはならないと思います。他にも幾千もの教えがあり、すべてが同じ結果をもたらす、と言われてる通りです(M-1.4:1-3)。
奇跡講座はすべての人を対象にしているものの、実践レベルでは明らかに万人向けのものではないし、人によっては無理な近道をしようとして心の病を悪化させる可能性もありそうです。特に、あらゆる事は100%自分に責任があるという考え方は、自責傾向の強い人にとっては逆効果かも知れません。
それぞれの人は、各自に適したタイミングで、各自にとって必要な霊性の道に導かれているように思えます。いかなる道を歩む人であってもリスペクトをもつ姿勢こそが、無数の道の目的地をひとつにすることに繋がるのではないでしょうか。

②「罪と戦うことによって贖罪に達することは極めて困難である。(T-18.VII.4:7)」

罪と戦うことによって贖罪に達する、というのは既存の霊性の道(宗教)のことを言ってるそうです。具体的には「罪」や「肉体」を実在のものとして扱う教義を指しており、博士のJTT本の講義では(名指しはしてないものの)伝統的なキリスト教やユダヤ教あたりを想定していると考えたほうが分かりやすい気がします。もちろん、他の多くの宗教も世界を実在のものと見ている点では同じです。
ただ、この記述にしても、決して既存の宗教にダメ出ししている訳ではないので、「世界をリアルにする教えは全部ダメ」などと白黒つけるべきではないと思います。そもそも博士ご自身がユダヤ教の出身ですし、そこから大転向してカトリックの修道士になり、さらに導きあってコースの教師になったという、スピ的多様性を極めた経歴の持ち主だったりするので。

③「また、肉体からの離脱を目的とした一生かけての観想や長期間にわたる瞑想も、必要ではない。(T-18.VII.4:9)」

これも、ここだけ読むとまるで瞑想を否定しているかに聞こえますが、これも前後の文脈も含めて考慮すべき箇所かと思います。何しろ奇跡講座のワークブックには、控えめに言ってもかなり瞑想的と言わざるを得ないレッスンが山のようにあったりするので、これをどう考えるか。
私自身は瞑想苦手なのでアレですが、少なくとも瞑想によって悟りを指向するアプローチは、歴史的にも長い伝統があることは確かに言えると思います。それはテキストでも「このような試みは…いつかは成果をもたらす(T-18.VII.4:10)」と認めている通りです。だから、もし学習者が心を静めるということに価値を認めないなら、ワークブックの存在そのものが矛盾だということになってしまう気がするのでした。(とはいえ、コースは形式的な瞑想を重んじてるわけではないことは確かですが)

。。。というのはおおむね私の見解なので説得力に欠けるかも知れませんが、じっさいワプニック博士も次のように述べています:

No.18870/p54 The following lines, expanding on what we just read, help undo the temptation to make A Course in Miracles special…
この節は、これまで読んできた箇所を発展させるもので、それは私たちが「奇跡講座を特別なものにしよう」とする誘惑を訂正するのを助けてくれます。イエスはヘレンだけでなく、すべての学習者に注意を促しているのです — 他者の霊性の道を裁かないように、と。
イエスは随所で、「このコースは普遍なるコースの幾千もの形態の一つに過ぎない(M-1.4:1-2)」と言っています。「このコースは、他の道に比べて良くも悪くもない(=コースだけを特別なものにしない)」と言うことは、「問題を唯一、心の決断の主体の中に見る」というコース特有の独自性を否定することにはなりません。

私は何をする必要もない

前置きが長くなりましたが、他の霊性の道についての話が引き合いに出されたのは、「コースは心のものであって、行動についてのものではない」というポイントを明確にするための布石だったと言えるでしょう。(ただしそれは、他の霊性の道についても等しくリスペクトする姿勢があって初めて成り立つ話かと)

そして肝心の「私は何をする必要もない(T-18.VII)」という言葉は、しばしば学習者に誤解されてきたようで、「コースは何もするなって言ってるから何も活動しません(゚∀゚)」など、ニートもびっくりな屁理屈をのたまう猛者も少なからずいたようです(@アメリカ)。当然ながら、博士はそういう揚げ足取りのようなレベルの混同を戒めております:

No.18899/p54-55 The above lines and those that follow emphasize that Jesus is not saying we should deny our bodies or not do things in the world…

つまり、「私は何をする必要もない (I need do nothing)」という時、イエスは「肉体を否定したり、この世界で何もするな」という事を言っているのではない、ということです。彼が言っているのは、肉体ありきの行動をどうこうせよという事ではなく、「私たちの行動を、異なるゴールに仕えるものへと変容させましょう」ということだからです。

イエスは、私たちがこの世界で行動的である必要はない、と言いたいわけではなく、「私たちがどんな行動をするにしても、まず最初にイエスと共に行動しなさい」と促しているとのこと。だから、家事をするのも聖霊と共に、仕事をするのも聖霊と共に。。。という事ですね。(それって具体的にどうすれば?という件については後述します)

ここで博士の喩えをひとつ。それは、「決断を行う心は、私たちの存在という車輪の軸(hub of the wheel of our existence)であり、私たちの肉体が行う様々な活動がそのスポークにあたる(our body’s various activities the spokes)」というものです。これはつまり、内容が形態よりも先にあり、原因が結果よりも前にある、ということを表しているそうです。
この車輪のたとえは、ビジュアル的にも分かりやすくて好き(*´∀`)

何をする必要もない=裁かずに見つめること

存在しない幻想が問題になり得るはずはないのだから、問題は夢そのものではないと言えます。本当の問題は、私たちの心が「夢を見ようと決断した」こと、そして、未だにその決断にしがみついていることなのだそうです。

ならばその問題を解決する方法は、私たちが夢を見続けるという決断を変更するだけ、ということになります。だからこそ私たちは、世界や肉体について「何をする必要もない」というわけです。人間関係や人生の状況といった形態が変化する必要はありません。なぜなら私たちに求められていることは唯一、私たちの目的を自我から赦しへとシフトさせることだけなので。

変わるのは私たちの世界を見る見方のほうであって、世界そのものが変わるのではない、ってことですね。

No.19243/p65 Once again, we need do nothing but choose the holy instant, which means having the willingness to look through the Holy Spirit’s…

私たちは「聖なる瞬間を選ぶ」以外のことは何もする必要はないといいます。聖なる瞬間を選択するのは心の行いなので、そこに特定の行動は要求されてません(もちろん、行動したらダメとも言ってません)。そして「聖なる瞬間の選択」というのは、「聖霊の目を通して、自我が何をしているのかをただ見つめる」という意欲なのだそうです。

それって具体的にどういうことを指してるのかが箇条書きされてました:

・もし私たちが自我を変えようとするなら、私たちはそれを実在させる。
・もし私たちが自我に動揺するなら、私たちはそれを実在させる。
・もし私たちが自我が問題だと思うなら、私たちはそれを実在させる。
・もし私たちが決断の主体ではなく自我そのものにフォーカスするなら、私たちはそれを実在させる。

これを一言でいうと、博士がいつも言っている「裁かずに自我を見つめる」になります。なぜなら、上記のような認識をもつことが自我の虚無性(nothingness)をありのままに暴くことになるから。

さきほど、「何をするにもイエス(聖霊)と共に行う」という話がありましたけど、それって肉体がどんな活動をしていても(家事でも、仕事でも…)、どこかにこうした視点を持ちながら活動するような感じなんでしょうね。それが「私は何をする必要もない」の本当の意味なのであって、決してニートの言い訳にしてはいかんのだろうなあ。ちぇ(^_^;)

*****

以上、コース界隈でいろいろ物議を醸してきたと思われる「私は何をする必要もない」についてのお話でした。
来月はJTT本19章いってみたいと思います!

コメント

  1. 読ませていただき、何もする必要がない
    ということと
    悪人正機ということ(我々は何をやっても救われない存在であるという確信)
    ということ、は同じことを言っているように思えました。

    • 悪人正機というのは仏教の有名な教えという所までしか知らないのですが、自分のちからだけで何とかしようとしない姿勢は似ているかも知れません。「何をする必要もない」は”I do nothing”ではなく”I need do nothing”と書かれている所が大事なのでしょうね。前者は自力っぽい響きですが、この一文にneedと入るだけで肉体から心へと重点がシフトし、謙虚な気持ちになれるような気がします。

  2. tobbeさん
    いつも楽しみに読ませていただいています。
    失業してニート中ですが、記事を拝見して
    コースを、自分の勝手な解釈にしないことの大きな気づきを頂いています!
    ありがとうございます。

    何もしなくても良い、、、という箇所など、
    私の場合、特に都合良く解釈、言い訳の理由にしてまいがちで 💦お恥ずかしいです!!

    tobbeさんの記事は、コースへの理解への
    私の支えです(*^_^*) 感謝をこめて!

    • すいかさん、なんと同じニートな境遇だったとはΣ(゚Д゚)
      最近、家族の無償の愛によって生存が保証されている状況というのは、人生で最も幸せな時期かも知れないな〜って思います。。。仕事してた頃は時間がなくて諦めていたあれこれの技術習得も、ニートの今だからこそ試行錯誤しつつやれるわけで、これを時間給で換算したらものすごい価値になるなと。そうやってリッチな妄想に浸るのが最近の密かな楽しみです。笑

      お互い、自宅警備員として有意義に過ごして参りましょう!?

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