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奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20210212(x2)

読書会 JTT-18章(1) 肉体と世界

2/2。

緊急事態宣言もありまして、相変わらず自習モードでした。今回読んだJTT本18章はなかなかてんこ盛りで、メモがいっぱいになってちょっとビビってたのは内緒です。個人的に響いたところをなるべく網羅してみたいと思います。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

Chapter 18 — The Passing of the Dream (1)

肉体と世界

18章のタイトルは「過ぎゆく夢」ですが、これを深堀りしたテーマのひとつが「肉体と世界」でした。

自我は、神から分離したという “心の想念” を “形態” へと投影した、と簡単に言ったりしますが、これはかなり途方もない話です。そのことは必然的に、私たちが実在すると思っている個別の肉体の世界が想起せざるを得ないのだとか (なぜなら、「想念はその源を離れない」+「投影が知覚を作り出す」から)。しかもそれは “分離は実際に起こった” という信念にお墨付きを与えるのだそうです。

No.18397/p40 It cannot be said too often that the body was literally made, specifically and purposefully, to hide the mind, and does nothing…

ここで、博士の分かりやすい例えが:
肉体は文字通り、心を隠すという特別な目的のために作られたといいます。そして肉体というのは、それ自体では何もしないそうです — 心が命令すること以外は。ところが、肉体としての私たちは、自分が従っている命令がどこからやって来ているのか見当もつかない状態なんだとか。
それはコンピュータで言うなら、まるで私たちが「プログラマーについての理解や記憶を全く持たないまま、プログラムの中を走り回っているようなものだ」と仰ってました。この説明は、なんかすごい分かりやすかったです。私たちの肉体というのは、単に心の指図に従うだけのゲームキャラってとこでしょうか。

「肉体の眼は決してそれ[罪悪]を見ることはない。だが、肉眼はそれ[罪悪]が司令するものを見る。(T-18.IX.4:6-7)」

という箇所については、次のような説明がありました:

No.18447/p42 The body will never look on guilt, yet guilt determines everything we think, feel, say, and do…
肉体は決して罪悪感を見つめることはしません。しかしその罪悪感が、私たちのあらゆる思考、感情、言葉、行為を決定します。肉体とは生命を持たない操り人形であることを思い出しましょう。それは単に、人形遣いの指示に従って演じるだけなのです。それは動的な幻想であり、それ以上でもそれ以下でもありません。まるで自主的に生きているように見せかけていますが、実際には何も見ず、聞かず、感じることもないのです。

肉体が心の操り人形だと言うのは、なんか理屈では分かる気がするけど、正直、体感的にはまだちょっと。(^_^;)
でも、そのことが感覚的に腑落ちできないとしても、概念として知っておくのは大事なんでしょうね。たとえば、私たちは体感的には平らな土地に暮らしてると感じてるけど、実は地球は丸い、ということを概念として知っておくことは役に立ちますもんね。そんな感じで。

太陽と大海のたとえ

肉体に象徴される “卑小な自己” と “神” との関係性については、テキスト18章に「太陽と大海の喩え」という興味深い喩えがあります:

「もしあなたが心の全体を賞美できさえすれば、断片は太陽にとっての微々たる一すじの陽光のようなもの、あるいは大海の面(おもて)のかすかな漣(さざなみ)のようなものだということが、すぐにわかるはずである。この微小な一すじの陽光は、その驚くべき傲慢さにより自分こそが太陽だと決め込み、ほとんど目にもとまらぬこの漣(さざなみ)が、自分は大海だと豪語している。(T-18.VIII.3:3-4)」

「だが太陽も大海も、この奇妙で無意味な所業に気づいてさえいない。どちらも、その微小な切片により恐れられたり憎まれたりしていると気づくこともなく、ただあり続ける。(T-18.VIII.4:1-2)」
「そして切片が自らを何であると考えようと、それが太陽と大海に全面的に依存して存在しているということに変わりはない。(T-18.VIII.4:4)」

ここで太陽や大海と呼ばれているのが神で、一すじの陽光とか漣(さざなみ)というのが肉体(あるいは自我の卑小な自己)のことを指してます。つまり「神は私たちの無意味な分離活動に気づいてもいない」という話なのですが、自我と同一化した決断の主体(=私たち)にとっては、それがひどく腹立たしく、なんとしても神にこの自己を気づいて欲しいのだとか。そうすれば、私たちの実質のない(substanceless)自己に、実質(substance)が与えられるから。

博士によると、私たちのこうした承認欲求が、聖書の神に絶大な人気があることの理由だそうです。なにしろ聖書の神は、私たちを気遣ったり、許したり、怒ったり、滅ぼしたり(!)してくれるので。要するに、神の応答はポジティブでもネガティブでも構わなくて、とにかく私たちの分離した存在を実証してくれれば良いらしい。笑

そうやって私たちの卑小な自己は、取るに足らない “無” が「自分は全てだ!」と夢見ているままですが、そうしている間にも、夢の彼方にいる真の神は「私たちの傲慢さ(馬鹿げた全能性)など知る由もない」とのことでした。

こういうたとえ話、なんか分かりやすくて好きです。(でも、最初に読んだときは全然記憶に残らなかったなぁ)

聖霊による肉体の用途

実際のところ、肉体はとてもリアルに感じられるし、それゆえに肉体は「分離は事実であり、心は実在しない」ということの確かな証拠として用いられてきた、というのは体感的にも分かる気がします。いや〜だって、普通にいろんな人がいるように見えるし、心がひとつだって言われても、身近なはずの家族ですら何考えてるかすら分からないし。これはもうストレートに自我の圧勝のようにも思われます。

ところが、ひとたび肉体が聖霊の赦しの目的を表現するとき、その肉体(分離の象徴であったもの)が、まさに私たちの帰還の旅における価値ある資産になるのだとか。それまで分離に仕えてきた肉体を、聖霊のゴールに仕えさせちゃうわけですから、これぞ聖霊版のどんでん返し!?

No.18789/p51 As the body was not made by love, it is an illusion. Even though it was made to attack love by limiting it…

肉体は愛によって作られたものではないので、それは幻想であるのだけれど、ひとたび私たちが心の目的をシフトさせれば「聖霊は赦しの愛ある目的に仕えるように肉体を用いる」のだそうです。ただ、そのためにはまず私たち自身が「特別性の不毛な探求は苦痛をもたらすだけだった」と認識する必要があり、そこで初めてこの世界に生きることに別の理由を求めるようになる。。。という順序を辿るとのこと。

聖霊は、私たちが求めればいつでも、夢から目覚める手段として肉体を使うことを思い出させてくれるそうです。できれば、そこんとこ、もうちょっと詳しく聞きたいなぁ。。。って思ってたんですけど、残念ながらJTT18章ではこれ以上に具体的な言及はありませんでした。
確かに、この話題をこの世的な観点から追求すると「聖霊は具体的なことを導くのか?」というコース界を二分する論争が待ち受けているので、博士の立場としては、これ以上は敢えて語らないのかも知れません。(ジュディだったらいくらでも話してくれそうですが。笑)

ただ、よくよく考えてみれば、この世界で愛を体現するような生き方をした人々というのも少数ながらいるわけで、たとえば超有名どころでいくとブッダとか、イエスとか、マザーテレサとか。彼らのような生き方が、肉体を聖霊の目的に仕えさせるということなのかな〜、と思ったりもします。

もっというと、私たちがいくら彼らの行動だけを真似ても、それだけでは愛を体現することにはならないだろうな、ってことも容易に想像がつきます。その違いというのは、「あらゆる人々のなかに尊さを見ているかどうか」ということではないかと。そうなると、やっぱり行動ではなく、心のほうに戻ってくるのでしょうね。。。

*****

JTT本18章はこうした肉体についての解説があり、それが「何もする必要はない」という話に繋がっていくのでした。これは何やら誤解されやすいセクションらしいですが、博士のブレない解説が素敵だったので、次でまとめられるといいな。

というわけで、次回 Chapter 18 (その2)に続きます!

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

コメント

  1. 大海のような神。こちらが分離していることを”知らない”、という奇跡講座の言い方は、どこか恐ろし気にも思えるのですが、坐禅などしていると、どうにも 本当にそのようになっていると思えるようなとこがあります。

      それは16歳くらいのときであったか、坐禅ということをはじめて したときに、自分を見ている自分(ずっとそうだったのに、私はそれを知らなかった存在)、ということに気が付いてぞっとしたことがあります。そのとき将来横田南嶺老師になる同級生に、

    ”僕は昨日、自分を見ている自分という、なにかようわからん やつが あると思えた。なんかでかい、でもようわからんやつ。”

    と言ったら、彼はにやりと笑って、
     
     ”禅ではその なんやようわからんものが自分だ、という”

    と言ったのでした。昼休み弁当食っているときでした。

      その後 いろいろなことが人生途上にあって、ようわからんやつは ずっとあり続けたのですが(失われるわけがないので)、その後(キリスト教徒の私がそうなるとは思ってなかったのですが)長く坐禅と続けることになって、その”ようわからんやつ”は 安心な存在でもあることがわかってきたようなとこがあると思えます。そして、そいつをどうにかしてしまいたいということもできないし、する必要もないようなのだけれど、そちらが主で私は従ということになればなるほど楽になっていく、といったところからくる安心のようなものがあると思えます。

    • Togoさん、興味深いお話ありがとうございました。
      私は坐禅の経験もなく意識の深い所に到達したこともないので、わかるー!と言えないところが残念ですけれども、「自分を見ている自分」というものについて様々なジャンルの書籍で言われているのは偶然ではないように思ってました。つまり、それだけ人類に共通する体験でありながら、大半の人(私のような)はそれを自覚することなしに生きている、ということなのでしょうね。瞑想系は苦手意識があったのですが、朝晩に少し心を静める時間があってもいいなと思うようになってきた今日このごろです😌
      そういえば博士も自分自身を眺めることについて話していたのを思い出しました↓
      https://tobbe.info/2019/01/11/1989/

  2. Togoさんのおっしゃる、
    その、「なんかようわからんやつ」というのが、
    コースで言われるところの、
    「心の視点」というものなんじゃないかなあと、
    いまふと思いました。

    • ねー。そうかも知れませんね。
      でも私には体験が欠けているので、これ以上憶測でものを言うのはやめときます😅
      しかしながら観察者の視点というのは重要なのでしょうね。よく考えたらワークブックも自分の想念を観察するような練習が多いですしね。

      • これなんですけどね。
        じつは、ほとんど全ての人がすでに体験しているのだけど、
        それに気づいていないということになるのではないかと、
        昨日、ふと思ったんですね。
        わたしは、高校生の頃、英語の勉強が大好きだったのですが、
        楽しく勉強していると、時々、自分の意識が広がって、
        自動的に英文を読んで理解しているという体験をしたんですね。
        自分ではない何ものかが、自分の代わりに英文を読んでくれているような気がしました。
        そういうときには、難しい単語も一発で覚えることができたりして、
        それがとても不思議だったのですが、
        それが、「心の視点」からみるということになるのではないかなあと、思ったんです。
        そして、こういう経験なら、Tobbeさんもすでにされているのではないでしょうか。
        確か、コースにも、天国についての体験をしたことがない人は誰もいない、
        みたいなフレーズありましたよね。
        いやもちろん、わたしのこのような理解が正しいかどうかは定かではないんですけどねw

      • あと、観察ということについて、
        わたしのいう「心の視点」の理解が正しいと仮定しての話になるのですが、
        心の視点にいるときは、
        とても喜びに満ちた状態だったんですね。
        そのような状態で勉強ができたときの、
        わたしの雰囲気の違いは外からみても分かるようで、
        勉強が終わり、母親に会うと、「お。今日はよく勉強ができたみたいね。雰囲気で分かるよ」と言われていました。
        なので、もしも、想念を観察していて、気分が良くない状態というのは、
        心の視点から見ているつもりでいて、じつは、
        自我の想念を自我の視点から見ているだけなのではないかと思ったんですね。
        とはいえ、わたしがいう心の視点が、コースのいう心の視点と同じだとしても、
        自由自在に心の視点に移れるわけではありませんので、
        どうしたって、自我の想念を自我の視点から眺めるというプロセスは通る必要はあるとは思うんですけどね。

  3. 山本さんは、英語を勉強するときに素晴らしい体験をされてたのですね。たしかに、そういう感じのことなら多くの人が何かしら体験しているかも知れませんね。
    ところで、「自我の想念を自我の視点から眺める」というのは、無を無で見る=見ていない、ということになってしまわないでしょうか。博士は「あなたが自我を見つめるとき、そのあなたは自我ではあり得ない」という説明をされていて、そのシンプルさに希望を感じたことがあります。よかったらどうぞ:
    https://tobbe.info/2018/04/01/1198/

  4. 毎度ながらたびたびすみませんです~。
    ごめんなさい。誤解を招く表現だったと思います。
    Tobbeさんがおっしゃる通り、
    「自我の想念を自我の視点から眺める」とは、
    「無を無で見る=見ていない」ということになろうかと思います。
    このことを前提に、わたしが言いたかったことなのですが、
    自我の想念を心の視点で眺めているつもりで、
    実際には、自我の視点で眺めているだけで、本当には「見ていない」、
    それなのに、コースの教えに沿って、自分では実践しているつもりになってしまっている、
    そういうことがしばしばあるのではないかと言うことであります。
    とはいえ、そのような、見ているつもりで実際には見ていないという過程は、
    誰もが避けて通れないことであり、
    わたしなんぞは、じつは、今もそんな感じなのではないかということであります。
    哲学者、「西田幾多郎」の歌に、
    「わが心深き底あり 喜よろこびも憂うれひの波も とどかじと思ふ」
    というのがあるのですが、
    これが、コースで言われるところの本当の意味での
    「心の視点から見る」、「平安から見る」ということなんじゃないかなあと思ったのでした。
    とはいえ、この辺、早合点は禁物で、
    また新たな気づきがあるかもしれません。
    その際には、また書かせていただけたらと思います。
    あと、リンク先の記事、とても勉強になりました!
    いつもありがとうございます

    • そういう事だったのですね。こちらの読解が足りず、失礼しました。
      私はいまだに何も分かってないですし、ご覧のとおり間違えてばかりですが、コースの素敵なのは「出来ない自分を責める必要はない」と言ってくれるところだと思います。時間の節約がコースの利点かも知れませんが、私のようにコースアウトしたり裁きまくったりで「やる気あんのか」ってくらいゆっくり歩む者であっても、真理のほうは決して急かしたり背伸びさせたりすることなく、私に学ぶ準備ができるまで、いつまでも待ってくれるというのが、とても有難いなあと思うのでした☺️

      • いえいえ。とんでもございませんです。
        ネットでの他者とのやり取りにおいて、
        他者の意図を誤解してしまうというのは、
        避けられないことだと思います。
        わたしなんか、毎日、誤解しまくりです。
        ていうか、
        他者が書いた文章を他者が意図した通りに解釈するということは、
        コースにおける学習のみならず、
        日常会話においても、至難の業ではないかと思うのであります。
        なので、対話というものが大切だと思っておりまして、
        対話にこそ、学びの本質があるのかもしれない、
        そんなことさえ思っているんですよね~。
        学習において、間違うことが問題になることはまったくないと思っているのですが、
        ただ、間違うことを問題視することは、問題になると思っているのであります。
        (なんだかコース的な言い回しw)
        間違うことが多ければ多いほど、それに比例して、学びが深まってくるように感じている、わたくし山本でございました。

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