ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200918(x3)

FACIM読書会 9月 JTT Ch.13 (その3)

(つづき)

じつは今回の女子会でも、短い間ですがビデオ通話でテディさんにゲスト参加して貰うことができました(毎度ありがとうです!)。お陰様で話題が一気に知的レベルアップできたと思います。今後はレギュラー参加していただこうかしら…笑

※それにしても、技術的にはコロナ以前から可能だったとはいえ、ビデオ通話がこれほど生活の一部として身近になったのはコロナ時代ならではの変化ですね!

JTT本13章これでラストです:

Looking p143 (No.12898)

No.12926/p144  The you the ego wants to kill is the decision maker, for once the…
(T-13.II.5:6)「というのも、自我は確かにあなたを殺したいと思っており、もしあなたが自我と同一化するなら、あなたは自我のゴ ールが自分のゴールだと信じずにはいられないからである」より:
・自我が殺したい「あなた」というのは決断の主体のこと。これが実際に意味するところは、自我は「心であるという自覚」を消し去りたい、ということ。
・自我は心の選択する力のお陰で存在しているために、その選択力を破壊することは決してできない。だから自我の目的は単に、神の子の「選び直す力」を無力化させること。そうすれば原初の分離の決断を保持することができると同時に、心の力が自我に対抗して使われることも決して無くなる。

No.13038/p147  The world’s purpose is to enable us to project our guilt onto certain…
・世界の目的とは、私たちの罪悪感を特定の他者に投影することによって、それが心からきている事を決して気づかないようにさせること(=心の存在について盲目にさせておくこと)。罪悪感そのものも私たちを盲目にさせる。なぜならそれは神のことも愛のことも全く知らないから。
・このようにして自我の戦略は素晴らしい防衛として機能している。この世の誰であろうと、自我の作戦について知る手がかりはほぼない。だからこそ私たちはそれを指摘してくれるコースが必要なのだ。

Forgiveness p148 (No.13074)

No.13092/p149  We project our guilt continually — at home, at work, everywhere…
・私たちは延々と罪悪感を投影し続けている — 家庭でも、職場でも、どこであろうと。そこには好ましく思う人たちと、軽蔑するような人たちがいる。もちろん、私たちは誰でも好みというものがあるだろう。だが、それを正当化しようとするときに「特別性」に入れ込む事になる。
・私たちは目撃した分離を事実として解釈し、その解釈を合理的に正当化した上で行動する。必然的に「投影が知覚を作り出す」。私たちが知覚するあらゆるものは心の投影であり、私たちが見たくない罪悪の隅石である。ということは、私たちはその罪悪が一掃されることを望んでいないということ。
・罪悪は内側を見ないことによって保存される(内側を見れば自動的に癒やされてしまうので)。だから私たちは内側を見るよりも投影することを選ぶ。私たちが特定の人々を愛から除外するのは、邪悪さが外側にあると信じているから(=内に秘めた邪悪さに目をつぶることによって)。

No.13099/p149  The practicality of this course rests in our living without guilt. We…
・このコースの実用性は、私たちが罪悪感を持たずに生きることにかかっている。私たちは自分に正直である必要がある。「そうだ、私はたしかに特定の神の子を愛から除外したいと思っている」と。
・それはあらゆる人々と仲良く過ごすべきだという意味ではない — 私たちは形態ではなく内容についてのみ話している。それは単に「あらゆる人が私たちの愛に含まれるか、誰も含まれないかのどちらかだ」ということ。

No.13127/p150  Loving without exclusion is very difficult, to say the least, and we…
・少なくとも、例外なく愛するということは非常に難しいと言える。私たちは「愛に対する恐れ」について、それを正当化したり、精神的な意味づけをしたり、否定したり、まして罪悪感を抱く必要などない。ただシンプルに「私は防衛をしている」と認識することが、恐れの闇をイエスの赦しの光へと運ぶことの助けとなる。
・私たちは自我にしがみついていることを防衛せずに見つめることにより、イエスにこう告白する:「私はあなたのように愛する事をとても恐れています。なぜなら私の一部が特別な自己を失うと信じているからです。」イエスが必要としているのは、私たちの愛への抵抗を表明するこの「わずかな意欲」だけなのだ。

No.13175/p151  Jesus again returns to his central theme: we forgive all brothers, or…
(T-13.IX.6:1-8)「…神の子を部分的に咎めることは不可能だと、常に覚えておきなさい…」より:
・イエスはここでも中心的なテーマ「すべての兄弟を赦すか、さもなくば一人も赦さないか」に戻ってきている。このテーマなくしてはコースの協奏曲は溶解してしまう。なぜなら贖罪の全的包括性こそがコースのメッセージの鍵だから。
・だからこそイエスは「神の子を部分的に咎めることは不可能だ」と教えている。もし一人を裁くなら、私たちは全員を裁くことになる(イエスを含めて!) 。なぜならそうすることは神の子をひとつとして見ないことだからだ。

No.13253/p153-154  In talking about happy dreams, Jesus does not mean the…
・幸せな夢に関して言えば、イエスはこの世のことを意味しているのではない。これはこの世でより幸せに生きるためのコースではない。幸せな夢は心の中でのみ生じるもの。なぜなら心以外には何も実在していないから。

No.13261/p154  In truth, there is nothing to do in the world, for the decision for love…
(T-13.VII.9:7-8)「愛は歓迎を待っているのであり、時間を待っているのではない。そして実相世界とは、これまでも常に存在してきたものを、あなたが歓迎することに他ならない」より:
・実際のところ、世界ですべきことはなにもない。なぜなら愛への決断とは、時間の外にある心によってのみなされるから。従って、奇跡、聖なる瞬間、幸せな夢、といったものも時間の外にある。
・私たちが “愛を選択する” ことが、こんなにも時間を費やすほどに大変である理由は「個別の自己という夢」から目覚めることを幸せと思えないからだ:私たちは、個である自己が存在できなくなる実相世界へと目覚めたくはないのだ。
・目覚めのプロセスが真に喜ばしい体験となるためには、私たちはゆっくり歩む必要がある。イエスが教えているように、私たちが最終的に実相世界へと踏み出す時には(ちなみに死によってではない):「あなたはこのすべてを得るために自分が諦めたものは、無でしかなかったのだと、嬉しい驚きと共に思うことだろう!(T-16.VI.11:4)」

The Real World p154 (No.13281)

No.13316/p155  The real world reflects the reality of Heaven’s Oneness. In this…
・実相世界とは、天国の一体性を反映するもの。この祝福された状態においては、あらゆるものがひとつである。ただし、そこには全く自己がないわけではない — 結局のところ、その世界を見ている自己はいるわけだから — しかしその自己は世界の非実在性を見ており、神の子が狂気のなかにありながらもひとつであることを理解している。そして彼自身は永遠なる神の正気のなかにあるということも。

*****

好き嫌いを正当化せずに見つめるには

13章で気になった箇所は以上です。
ここ印象に残ったのは、No.13092、No.13099、No.13127と3つ並んでいるところ。実生活において、文字通り世界中すべての人を愛の眼差しで見るなんてムリ!って思ってしまうし、そのことはワプニック博士も「我々には好みがある」というかたちで肯定してくれています。ただし、その好みを「正当化」しようとする時に分離を実在させてしまうのだとか。。。

まあ確かに、イチゴは好きだけどニンニクは苦手、みたいな生理的な好き嫌いは誰だってあると思うし、そのこと自体は「ああそうなのね」で済むニュートラルな出来事に過ぎません。そういう意味で、この世レベルにおいては「イチゴ好きな人々と親しく付き合いつつ、ニンニク党の人たちからは自然と距離を置く」みたいな事は、ごく普通のことだし全然構わないと言えるのでしょう。

だけどそれを「イチゴは正義!イチゴが嫌いだなんていう奴は非国民」とか「ニンニク入り◯◯を食べるなんて信じられない」などと、自分の嗜好と相入れない人々を排斥したり裁いたりするようになってくると要注意なのかなと。

あるいは逆に、「私は学習者なんだから、すべての人を愛さなきゃ!うわ〜でもニンニクの臭いがマジ無理ぃぃ…」と自分に我慢を強いながらニンニク派の人たちとも表面的に仲良くしようと頑張るのも、なんか違うわけですね。(トベやりがち orz)

でも実際には、この世にありながら「すべての人を例外なく愛する」みたいな芸当は、限りなく悟りに近いレベルだと思うので、それを無理にやろうと背伸びしたり、できない自分を責める必要は全然ない、という実にフツーな話をしてくれているのでしょう。

「じゃ、全ての人を例外なく愛せていない自分はどうすればいいんだ??」という疑問についての博士の回答は:ただ、「自分は特定の人々を愛から除外したがっている。つまり、自分はまだ救済を恐れている」ということを正直に認めること。そして、そのことについて聖霊に助けを求めるわずかな意欲を持つこと。。。

自分がそのように真理を防衛している、と認識することが「恐れの闇を赦しの光へと運ぶ助けになる」のだそうです。

うん、まあ。。。それくらいならできる気がするけど、問題はパパリンやその他の人々を心の中でDisってるときに、まんまとその事を忘れちゃってることかも!

って、そこに気づけるよう心を訓練するのが奇跡講座でしたね(゚∀゚)

以上、JTT本13章からのまとめでした〜。

※言うの忘れたけど、個人的にはニンニクめっちゃ好きで料理には欠かしません♡

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

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