FACIM読書会 8月 JTT Ch.12 (その3)
(つづき)
こちらでJTT本12章のまとめ最後になります。今回の12章は3分割しましたが、中でもこの後半シリーズがいちばんグッときたかも。
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
★Chapter 12 — The Holy Spirit’s Curriculum p114〜
Forgiveness: Not Making the Error Real p114〜 (No.11899)
No.11965/p114 Jesus is not talking about form. If someone asks you to do something outrageous, like jumping…
(T-12.III.4:1-3)「何が重要でないかを認識しなさい。そして、もし「法外」と言えるような何かを兄弟があなたに求めるなら、それが重要でないからこそ、それをしてあげなさい」より:
・これはイエスが ”形態” について言っている事ではない。誰かがあなたに「法外なこと」、例えば「ゴールデンゲートブリッジから飛び降りろ」などと求めてきたら、その通りにしなさいという意味ではない。
・ついでに言うとイエスはこうも言っている:「兄弟の誰かがあなたに馬鹿げたことを求めてきたなら、それをしてあげるようにと、私は言ったことがある。しかし、これは当然、兄弟もしくはあなたを傷つけるような馬鹿げたことをしてもいいと言う意味ではない。なぜなら、ひとりを傷つける事は、もう一人をも傷つけるからである。(T-16.I.6:4-5)」
・イエスがフォーカスしているのは “内容” である。それは、誰かが私たちに何か法外なことを求めてきたとき、私たちが即座に「NO!」と心の中で叫ぶことを指す。それはつまり、私たちも相手と同じくらい不埒であることを物語っている。
・この事が言っているのは「私たちは必ずしも求められた事(形態)を実行する必要はないが、それを行うことについていかなる抵抗(内容)も体験しない」と言うこと。さもなくば自我の誤りを実在させてしまい、幻想に対して存在するはずのない重要性と力を与えてしまう。
No.11975/p115 Remember, people are not truly asking for the demanded behavior, but rather to be shown…
・覚えておくべきは、人々は(他者に求める法外な)行為を真の意味でやって欲しいのではなく、むしろ彼らの心の選択が間違っている事を示して欲しい(→彼らが信をおける何か別なものがあると示して欲しい)ということ。
・私たちは形態のレベルでは「NO」と言うことができる。しかし、それは「私が間違っていると示してくれないか?」という兄弟の ”真の問い” に対して「YES」と答えた上でのことだ。
・私たちが法外な要求に対して防衛的な反応をしないのであれば、たとえ私たちがその要求に応じないとしても、肯定的な応答をすることになる。つまり私たちは、正しい心の中でこそ「自我の願望(他者の否定)を否定」することができ、それは私たち自身に対する回答にもなる。
No.11997/p115 Every action has a reaction, as physics teaches. If something exists, it must affect something else…
・物理学が教えるように、全ての作用(action/行為)には反作用(reaction/反応)がある。もし(この世界に)何かが存在するなら、それは他の何かに影響を与えるということだ。
・だから、他者の罪(のように見えるもの)が何の影響も及ぼさなかったと示すことにより (例えば、私たちが怒りで反応しないことなどを通じ)、それが実在しないことを証明することになる — それが赦しの真の意味。
No.12003/p115 By reacting defenselessly, on the other hand, we teach that their sin had no effect, and thus…
・防衛しない態度で応答することにより、私たちは彼らの罪には何の影響もなかった(従ってそれは罪ではなく、すでに赦されたもの)と教えることになる。
・繰り返すが、これは肉体の行動上の応答のことではなく、”誤った心” または ”正しい心” における態度についての話である。
Teaching and Learning p116 (No.12020)
No.12087/p118 Jesus is describing the split mind. The right-minded decision maker wants to correct…
(T-12.V.7:10-11)「だが、あなたの学びがあなたの心に反することを語る時、あなたの心はあなたの学びに反することを語る…」より:
・イエスはここで分裂した心について説明している。正しい心にいる決断の主体は、誤った心の間違いを訂正して聖霊から学びたいと思っている。つまり、自我が教えてきた事を白紙に戻したいということ。
・罪悪を選ぶことによる苦しみを自覚することによって、私たちの決断する心は贖罪を選択する。それが、心にとって唯一自然な行為だから。
No.12130/p119 We learn through generalizing. For example, in grade school we did not learn to add, subtract…
・私たちは ”普遍化” を通じて学ぶ。例えば小学校で足し算、引き算、掛け算、割り算を教わるときに、世界中の全ての数字を使って教わった訳ではない。そうではなく、基本的な算術をあらゆる数に対して ”普遍化” するよう教わったはず。
・同じように、私たちは世界中のあらゆる人々を一人残らず赦す必要はなく、私たちにとって特別な関係にある特定の人々を赦すことだけが必要。そのように、少数の人々を赦すことを通じた学びによって、「神の子は全て一つである」ということを全ての人々へと”普遍化”することになる。
No.12151/p120 Jesus has us begin where we are, with what upsets us or makes us anxious, guilty, or exhilarated…
・イエスは、私たちが今いる場所から(学びを)開始させてくれている。私たちを怒らせたり、不安にさせたり、罪悪感を持ったり、有頂天にさせるものを対象にするようにと。
・イエスは私たちの人生における特定の人々や特定の状況について赦しを実践するように教えている。そして、その学びを ”普遍化” することによって真の悟りに光り輝くものへと転換させていく。
・このプロセスにおける鍵となるのは「徐々に」ということ。私たちは忍耐強くある必要がある。なぜなら私たちには、救済の真実「私たちと神の愛を隔てるものはない」を受け入れることへの抵抗があるから。
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法外なことを求められたら
上記のNo.11965以降は、「兄弟が法外なことを求めてきたら、それが重要でないからこそやってあげなさい」というテキストの教えについての解説になってます。ここって、文字通り解釈すると「不当な扱いを受けても相手の要求に応じるべき」という風に受け取れるし、トベもそう思ってたフシはあるかも。。。
実際、仕事をしていた頃は数々のムチャ振りがありましたが、「これが重要でないからこそやってみせなければ!」みたいな使命感に燃えて文句言いながらもオニ残業→ヨレヨレになったりしてました。これって聖書の「右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい」にも重なるけど、いくらでも自己犠牲を美化する方向に行けてしまうというか。
この箇所について、同じようなレベルの混同を起こした学習者がアメリカでも続出したかどうか分からないけど、博士ここで思いっきり釘をさしてました(^^;)。「じゃ、ゴールデンゲートブリッジから飛び降りろって言われたら、ハイそうですかと自殺しますか?」と極端な例を挙げて、コースは決してこの世レベルでの自己犠牲を求めている訳ではないことを示してくれています。わかりやす〜!!
そうじゃなくて、この箇所の本当の意味は、兄弟の要望(ムチャ振り含む)に対しての心理的な抵抗(防衛)をなくす事なんですよ、と説明されてて「おお〜、そういう事だったのか…」と今更ながら目からウロコだったのでした。それに続く説明も奥が深く、ムチャな要求をしてくる相手のほうも、心の奥底では「どうか自分の選択が間違っていることを教えて!どうか愛によって応答して!」ということを求めているのだとか。。。
まあ、博士にそう言われたからって直ちにムチャな要求に対する心理的抵抗をゼロにできるかというと無理なんですけど、コースで目指しているのはそのような方向性なんですよ、というのは納得がいきます。(そのほうが却って難しいじゃん…orzと思わないでもないけど) 少なくとも、物理的にどう振る舞うべきかという話ではないってことですね!
以上、JTT本12章からのまとめでした(^^)
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
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