ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200714(x2)

FACIM読書会 7月 JTT Ch.11 (その2)

(つづき)

じつは読書会メンバーからの希望もあり、今回はテディさんに初のゲスト出演して頂きました。博士本に精通されてる方なので、以前からお招きしたいと思っていたところ、昨今オンライン会が普及したことによりはからずも初対面が実現した形です。短い時間でしたが、我々全員に非常に恩恵ある結果となり、一同感謝しております!(^^)

というわけで、JTT本 Chapter 11の後編いってみます。(またもや長くてスンマセン)

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 11 — God or the Ego p59 (No.10092)

Looking p75 (No.10665)

No.10706/p77  We do not have to fear the ego’s nothingness. Only our belief in…
・私たちは無である自我を恐れる必要はない。ただ私たちの「幻想への信念」だけが、それら(幻想)を危険なものにしている。なぜなら、幻想そのものは私たちに影響を及ぼすことなど出来ないから。
・自我の「闇」に対して何もする必要はない、それは文字通り無であるから。だが、私たちの「闇への信念」については絶対に手を打たなければならない。

Oneness p78 (No.10739)

No.10771/p78  The Holy Spirit, rather, teaches us to accept our scripts as we live…
・聖霊は私たちに、人生の台本を受け入れるように教えている。「重要なのは、人生の出来事に対する我々の姿勢や応答のしかたであり、出来事そのものではない」ということを私たちが学べるように。

Forgiveness p79 (No.10795)

No.10827/p80  We justify our exclusion of certain people from the light by saying…
・私たちは、特定の人々を除外することを正当化する理由として「彼らのほうが先に攻撃してきて、除外されることを望んだのだ」と言う。しかしイエスが私たちに認識して欲しいのは、「そのような裁きは兄弟を除外するだけでなく、自分たち自身も天国から除外してしまう」ということ。そのようにして私たちは「個別性と分離」という地獄の闇に取り残される。

No.10875/p81  Blame is removed when we bring our guilt back within and look at it…
・非難が取り除かれるのは、私たちの罪悪を(外側ではなく)内側に引き戻して、それを見つめるとき。するとそれ以上、その罪悪を外側に見たり、外敵を打ち負かすことでそれを訂正しようとはしなくなる。
・悪人とは私たちであって、彼らではないのだ(彼らがどんなに酷いことをしたとしても)。私たちはこの世界にいるという時点で、自分たちが想像しうる限り最悪な罪を犯した悪人であることを知っている。だがそこでの大きな誘惑とは「正義と無罪性という衣に隠れ、世界に敵を見ることで心の罪悪感を否認する」こと。

No.10898/p82  “Come wholly without condemnation…” The word “wholly” is why…
・(T-11.IV.6:2)「ただし、まったく咎めをもたずに来なさい」の「まったく」という言葉が、このコースをとても難しいものにしている。私たちは、例外なく赦さなければならないのだ。

No.10935/p83  Projection makes perception. What we perceive in others is an…
・投影が知覚を作り出す。私たちが他者に知覚するものは、心が「自我の分離 / 聖霊の一体性」のどちらを選択しているかを反映する外的映像。劫罰や救済は決して外側には見いだせない。なぜならそれらは心の中の想念だからだ。
・それらを外側に知覚しても、それらが実在することにはならない。だがそれらの想念を(外側に)投影してからというもの、私たちは分離、喪失、死といった幻想の証拠として世界を用いてきた。
・一方、「別の道があるはずだ」と気がつくならば、私たちはキリストを証しするものを知覚することになる:兄弟は「愛を表現しているか、愛を求めて叫んでいるか」であると。

Resurrection p85 (No.10993)

No.11065/p87  Jesus is telling us: “If you truly want to be my disciples, learn from…
・(T-11.VI.7:3-4) イエスはこう言っている:「私の使徒になりたいのなら、私から学び、私の教える復活を世界に教えなさい。言葉や行いによってではなく、その愛をあなたが体現することによって示しなさい。それこそが私があなたの中に生きている証拠であり、復活すなわち “神の子は死の夢から目覚めた” ということが事実であると証しするのだから」と。
・実際、イエスならこう続けるだろう:「”私は主を愛します”、などと言わないように。それより、私が教える愛の思考体系によって、あなたの愛を手本として示しなさい。私のもとに、咎めの想念の十字架や、他者の肉体に打ち込もうとしている釘を持ってきなさい。私がそれらの正体を見抜くのを助けてあげよう。それらは、あなたが犯してしまったと信じているものの投影であり、実相においては何も起こっていない。死の夢は終わっており、あなたの復活した目は真実を見るために喜んで見開くだろう」

The Real World p88 (No.11119)

No.11122/p88  As Jesus will explain, though the very term is contradictory because…
・世界が実在のものでない以上、「Real World (実在の世界=実相世界)」という言葉は矛盾しているようだが、実相世界とは天国の実在性を反映するもの。同じように、この世界での人間関係は決して聖なるものではあり得ないが、分離を赦すことによる「聖なる関係」は、天国の聖性/一体性の反映する。
・従って「実相世界」も依然として幻想ではあるが、それは私たちの心が「ここにある全てことは夢であり、天国の一体性に対する防衛である」ということを確かに知った状態であり、幻想の終わりに位置するもの。

No.11141/p89  When Jesus appeared here, he was already in the real world, which…
・イエスがこの世界に現れたとき、彼はすでに実相世界にいた。だからこそイエスは、彼の身にふりかかったいかなる出来事にも影響を受けなかった。たとえ聖書の記述にあるようなことが文字通り起こっていたとしても、彼は何も起きてはいないと知っていた。実際、彼は自分がこの世界には存在しないと知っていたのだ。
・私たちがイエスと呼ぶ存在は、ただ夢の登場人物(世界がイエスと呼んだ人)を観察していただけ。彼自身がその登場人物だったというわけではない。
・そして彼はいま、私たちがその癒やされた知覚の状態(実相世界)に到達することを助けてくれている。

No.11146/p89  A loving thought is any thought that embraces the Sonship as a…
・愛ある想念とは、「全体としての一なる子を受け入れる」と同事に「いかなる形の特別性も見ることはない」という想いのすべて。これらの想念は、赦し、平安、癒しといったものを含む。それらは「神の完璧な愛」の反映となる。

No.11150/p89  The real world is not Heaven, but it is the final step before its…
・実相世界は天国ではないが、天国に到達する最終ステップではある。それは依然として知覚する状態(夢を見ることに関わるもの)だが、「それが夢である」という理解を伴っている。

No.11166/p89  Good and evil do not exist in the real world, for the healed mind…
・実相世界には善悪の区別は存在しない。癒やされた心にはあらゆるものが幻想として映るから。それは善でもなく、悪でもなく、「無」なのだ。実相世界には区別というものがない。これが、私たちが天国の非二元の状態に目覚める前に、最も天国に接近した状態である。

*****

JTT本11章からは以上です。
超絶トリビアですが、今回No.11141の一節にふと目が止まり、そこから興味深い事が分かってきたので、経緯を記しておきます:

博士節とA&Pメッセージが交差するところ

「イエスは地上にいたとき既に悟っていて、十字架刑によっても苦しむことはなかった」というのはゲイリー本(神の使者etc)からコースに入ってきた人にとっては暗黙の了解となっていますが、これってよく考えたら聖書学的な常識を覆すようなトンデモ情報です。しかも情報源がA&Pという謎のアセンデッドマスターだったりするし。笑

一方、ワプニック博士は論理的かつアカデミックなアプローチの方なので、トンデモ情報を話したりはしません。ですが、このNo.11141ではチラッとですが「イエスはこの世界にいた時、いかなる出来事にも影響を受けなかった」と言い切っています。まあ、博士がそう断言するからには、テキスト(T-6.I等)を根拠にした厳然たる論理的帰結として述べているのでしょう。

とはいえ、博士は初期の著書(Forgiveness and Jesus等)では2000年前の出来事については「イエスなら…だったはずです」という憶測の形で触れる事はあっても、断言することは滅多にない印象だったので、個人的にはこの一節はやや異例に映りました。そしてこれを読んだ時、ふとA&Pのメッセージが重なって感じられ、ハッとしたのでした。

ちなみに、このJTT本の元となった博士の講義が行われたのは2001〜2002年です。一方、ゲイリー本「神の使者(D.U.)」が初めてFearles Booksから出版されたのが2003年5月(その後Hay Houseから2004年11月に出版)。つまり1年くらい時間差があるので、博士が出版後のゲイリー本を読んでA&P情報に触れたという事は考えにくい。。。と思いきや〜、

ゲイリーは「神の使者」を出版する前の2002年4月にワプニック博士(当時FACIMでコース関連の著作権を管理していた)にD.U.の原稿を送っており、その一ヶ月後に「コースからの引用をすべて認める」という返事を受け取ったとあります(不死本 p19)。なので、博士がこの講義を行なったとき、A&P情報と接点があった可能性が出てきました!

。。。という超どうでもいい閃きをもとに、博士がこのJTT講義のレクチャーを行なった時期を調べたところ、なんと2001年9月〜2002年5月に開催されたそうです(出典はこちら)。9ヶ月で31章+αの講義を行なったわけですから、1ヶ月毎に3-4章ペースの計算です。ということは、この講義(11章)を行なったときは2001年11〜12月ごろと推定されます。残念!この頃はまだゲイリー原稿は届いてなかった!(≧∀≦)
※でも2002年4-5月に28?〜31章をやった頃には確実にD.U.原稿を見ていたはず。

しかし、だとすると上記の断定形は、博士が独自のインスピレーションにより、かなり確信をもってA&P情報と同じ結論に達していたことの証でもあるように思えます。それって尚更すごい事なのでは。。。(晩年の博士は、ご自身の神秘体験については口を閉ざしてますが、必ず何かあったはずだと思うのは私だけでしょうか…)

以上、すべて私の推測に過ぎませんが、あの博士の一言からA&Pとのシンクロを感じたのはなかなかロマンでした。我ながらトリビア万歳です。(^^)

おまけ:博士とゲイリーの繋がり

ワプニック博士はゲイリーなど相手にしなかった、というのは公式見解として正しいと思います。ただ、博士の晩年にはプライベートでの交流があり、ゲイリー達を会食に招待したり手紙を交わしたりして、それは博士が2013年に亡くなるまでずっと続いていました。(この辺のプライベートな交流は、ゲイリー講座およびアルゼナ紹介からも垣間見ることができます)

ただ、博士のアカデミックな立場からは、信憑性を担保できないゲイリー本を公に推薦することはできないのは当然であろうと思います。そのへんを公私混同しないことは、FACIMのトップとしてごく常識的な配慮ではないでしょうか。ゲイリー本の奇想天外さは、私から見てもFACIMの教え方に(形態面で)マッチするとは思えませんし、もし自分が博士だったら胸に秘めておくと思います。

確かに、博士がACIM界では最も権威ある教師であることは疑いありません。だからこそ、その博士がゲイリー達でさえも異端として排斥するのではなく、兄弟としてリスペクトしていた、という在り方に思いを馳せたいと思うのです。

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