ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200714(x2)

FACIM読書会 7月 JTT Ch.11 (その1)

7/11。

今回も紆余曲折ありましたが無事に開催できました。7月に入って都内の感染者数が一気に増えたことを受けて、オンライン開催を希望したのは私ですスンマセン。(高齢両親のリスク避けたく…)。

そんな我々ですが、読み進めは各自着々と進んでいます。私からはJTT本11章の要約シェアということで、いつもどおり2分割で投稿デス。ちと長いですがご容赦ください。

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

★Chapter 11 — God or the Ego p59 (No.10092)

The Authority Problem p60 (No.10119)

No.10169/p61 This is an example of projection: believing we are absent from God…
(T-11.I.5:3)「もしあなたが自分は神のもとに居ないと信じるなら、自分のもとに神が居ないと信じることになる」より:
・これは投影の一例。私たちが神から離れたことで「自分は神のもとに居ない」と信じることにより、必然的に「自分が神を見捨てたのではない、神に見捨てられたのだ」と信じることになる。
・これは「両親や信頼する人々(妻や子供etc)から見捨てられるというパターンを、なぜ自我が大いに好むのか?」ということの説明になる。自分が見捨てられたということは、自分に罪があるのではなく相手に罪があることの証拠となるからだ。
・しかし、こうした投影にも関わらず、私たちの隠された罪悪の想念(T-27.VII.11:7密かな夢)はその逆のことを告げる:「私たちこそが見捨てた側であり、罰されるべき存在なのだ」と。

No.10225/p62 The source of the delusional system is the belief that the separation…
・妄想の思考体系の源は、「神からの分離は真実であり、我々がこの現実の作者である」という信念である。その想念に続くすべてのものは妄想とならざるを得ない。なぜならそれは妄想から発しているから。狂った想念は、その狂った源を離れない(insane ideas leave not their insane source)。

No.10263/p64  Another subtheme in the Course is the contrast between the ego’s…
・自我の願望(wishing)と神の意志(willing)の対比はコースの副テーマのひとつ。「願望(wish)」は自我または分裂した心(知覚世界の二元的な体験)を表す。一方で「意志(will)」は神のものであり、智識の非二元的な状態を表す。wishing(願望)とwilling(意志)の対比は、非実在と実在の間に存在するかに見える対立を反映している。

No.10290/p64  For example, some say they yearn for God and want to be with Him…
・例えば「私は神を切望しており、神と一体になりたい」と言う人がいるが、それが真に表現しているのは、ほとんどの宗教に見られるのと同じ「神との特別な関係を結びたい」という願望である。
・私たちは神を渇望するが、そもそも自分たちが分離したと信じたのでなければ、神と繋がりたいと望むはずがない。それは単に、私達が訂正しようとしている想念そのものを強化するだけだ。
・本当のところ、私たちが神と繋がろうとする必要はなく、私たちがすでに神とひとつであったことを受け入れるだけで良いのだ。

No.10367/p67  Simply because we closed our eyes, meaning the mind’s ability to…
・(T-11.I.5:10) 単に、私たちが目を閉じてしまった(=聖霊を見たり聞いたいする心の能力を遮断した)からといって、聖霊がそこに居ないとか、私たちには聖霊に気づく能力が欠如している、という事にはならない。

The Ego’s Fear of the Atonement p68 (No.10413)

No.10467/p70  We cannot accept God’s Will while in a state of conflict, for if we…
・私たちが対立の状態にある間は「神の意志」を受け入れることはできない。神の名において他者に戦争を仕掛け、彼らを滅ぼすことが神の意志だと信じるならば — 残念ながら歴史を通じてその通りだったが— 私たちは決して平安を見出すことはない。
・神の平安が私たちのものとなるのは、対立/支配/征服の余地などない完全性 (全ての人々、全てのものを、全ての時において包含する完全性) を、私たちが認識する時だ。

A Course in Miracles p70 (No.10491)

No.10506/p71  Jesus tells us his course is perfectly clear, which is what we fear…
・イエスはこのコースが完全に明解であると告げており、私たちはそのことを恐れている。「コースの原理を生きること」がこのコースを難しいものにしているのであり、使われている言葉や文体が難しいのではない。
・ACIMの究極のゴールは、世界と肉体が幻想的であることを私たちに教えることだ。そして私たちは、「別の見方で状況を見させて欲しい」とイエスに助けを求める度に、自らの独自性の棺に釘を打ち込むことになると、心の奥底では知っているのだ。
・この選択の不可避性を恐れるあまり、私たちはコースの教えを「分離と特別性を強化するもの」に変更しようとする。

No.10526/p71  This is an important passage because it could easily be taken out of…(T-11.VIII.5:4)「求めれば与えられると告げられる以上に、具体的なことはあり得ない。あなたが問題は具体的なものだと信じている間は、聖霊はどの具体的な問題にも答えるだろう」より:
・これは重要な箇所。この一節はいとも簡単に文脈を省かれ「聖霊に具体的なものごとを求める」ことを正当化するために使われがち。
・聖霊に助けを求めることが意味を持つのは、それが「自我の思考体系を訂正するための求め」である時に限られる。駐車スペースや、癌の治癒や、世界平和などを求めるためではない。
・しかしながら、私たちが特別性に基づく二元的な世界を信じている以上、私たちの求めに対する聖霊からの愛の答えは具体的なかたちをとることになる。この一節でイエスが言っているのはそういう意味。

No.10534/p72  Accordingly, we should not take the above passage to mean that…
・従って、上記の一節を読んで、イエスが本当に具体的なものごとを求めるように言っていると捉えるべきではない。
・念のために言うならば、私たちが特定の肉体であると信じている以上「聖霊に具体的なものごとを求める」のはスタート地点としては良いだろう。しかし、イエスは私たちがいつまでもその体験に留まることを望んではいない。

No.10565/p72  Our true problem is not cancer, AIDS, or a dwindling bank account…
・私たちの真の問題は、癌でもAIDSでも減りゆく銀行残高でもなく、「私たちは源(神)から分離してしまった」という信念。
・我々は今まで問題を取り違えてきたのであり、唯一意味ある質問とは「私たちが欲しいのは問題なのか?答えなのか?」である。その答えは必然的に贖罪であり、それは「神がその愛と引き換えに要求するものは何もない」と教える。真実には、私たちはかつても今も神の愛以外の何者でもない。
・イエスはコースが助けになると約束しているが、我々のほうがその助けを受け入れたいと思うために学ぶ必要がある。霊的な子供から大人へと成長し、我が家に帰還するために。

Children p73 (No.10571)

No.10589/p73  Jesus refers to discussions on perception within the field of…
・イエスは心理学の分野から知覚について述べている。私たちが知覚するものは、物理的な感覚器官から伝達されるものではなく、私たちの心がそれらの感覚データをどう解釈するかによって決まる。
・例えば、私たちの目が「振り上げられた拳」や「怒った声」「爆弾を落とす人々」「銃を撃つ人々」を目撃したなら、私たちの脳はこれらの振る舞いを常に「攻撃」だと解釈する。すなわちそれは「心の罪の邪悪な表現であり、報罰に値する」と。
・しかし、こうした行動を解釈するには別の方法もある。聖霊は「攻撃とは恐れの表現である」と理解しており、それは「否定された愛を求める呼び声」であると見る。
・知覚というのは私たちが「客観的」に見るものではなく、見たものをどのように解釈(自我/聖霊)するか?ということ。この決断が私たちの応答を決定する(現象世界で何が起こっていようと関係なく)。
・イエスが「あなたがたはまるで幼子のようであり、知覚しているものを理解していない」と言うのはそういう意味。だが我々は傲慢にも自分は理解していると信じている:「攻撃はどうみても攻撃であり、報復が必要だ」と。だからこそ私たちは、その逆を教えてくれる教師が必要なのだ。

No.10653/p75  As do children, we see ghosts, monsters, and dragons all around…
・子供たちがそうであるのと同じように、私たちも、身の回りのあらゆる所にオバケやモンスターやドラゴンを見ている。我々はただ、それらをもっと洗練された名前で呼んでいるだけ。国家のリーダーはそれを悪の枢軸と呼んだり、個人レベルでも意地悪で邪悪な人々がこっちを傷つけたり陥れたりしようとするのを見る。こうしたものが、私たちを日々包囲する恐ろしいモンスター達。
・こうした説得力のある証人(知覚)があってもなお、私たち(学習者)は「外に知覚するものは単なる投影であり内なる恐怖である」ということを学んでいる。その恐怖というのは、復讐の神と対立しているという信念から来ているのだが、これらの全てが空想の産物であることに変わりない。
・外に知覚されるかに見えるモンスターは決して恐ろしいものではなく、私たちの内なる罪悪の象徴でもない。肉体と心の両方のレベルにおいて、知覚というのは文字通り「苦しみという想像による虚構」なのだ。

*****

聖霊に何でも尋ねる問題

ちょっとスッキリした事をひとつ。先日のジュディのWeb講座で出てきた「聖霊に具体的なものごとを尋ねる」事にまつわる疑問が、上記で解決したからです。(No.10526、No.10534参照)

今までモヤモヤしてた理由は、ジュディが「どんな具体的な事でも聖霊に尋ねましょう」というスタンスなのに対して、ワプニック博士は日頃から「聖霊に具体的なものごとを尋ねるべきではない」と言い続けてたからでした。これ、行動面だけを捉えると完全に矛盾しているので、どう解釈するかまとまらなかったのでした。

でも今回、博士は「聖霊に助けを求めることが意味を持つのは、それが自我の思考体系を訂正するための求めである時に限られる」という明確な基準を示してくれています。また「我々がこの世界にいると信じている以上は、聖霊の答えも何らかの形態としてもたらされる」ことについても否定していません。

その観点であれば確かにジュディの見解とも矛盾しない!という事にやっと気づいて、目からウロコだった次第です。つまり焦点となるべきは聖霊に具体的なことを尋ねるか否かではなく、何をするにしてもその目的が「自我の訂正」であるかどうか、ということだったんですね。

というわけで、ジュディvs.博士の矛盾のように感じたのは、私のフォーカスがずれていたからだったのでした。あーすっきりした(^_^;)

というわけで、次回 Chapter 11 (その2)に続きます!

出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)

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