ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200608, 20200628

ゲイリー達のオンライン講座 (41)

5/23。

5月の遅れが尾をひいているので、間隔を詰めて連投です!こちらは日本時間5/15に配信された The Laws of Healing, from ACIM Chapter 26, Section VII (Part1)になります。

講座の本編

今回は冒頭の瞑想タイムでシンディが一曲歌ってくれました。オンライン越しだったので音質はそれなりだったけど、こういうのも癒やされるかも。本編からは一言メモです:

[シンディ]
(0:14) その問題がどんな形態をとっていようと — たとえ肉体の問題であろうが他者の問題であろうが — そこには常に一つの問題しかありません。その問題とは、私がそのこと(他者や状況)を神からの分離のために使っているということです。それこそが自我のやり方だと気づいた時「でも、私は別にそうする必要はないのだ」と思い出すことができます。

[ゲイリー]
(1:05) 僕が思うに、コースを長くやればやるほど、直感が聖霊からやってくるようになる。学習の初期は、聖霊から来た直感だと思っていたことでも、実際には自我の直感が含まれていることが多いものだ。だが、君がコースを長く続けてどんどん自我を訂正していくと、君に訪れる直感、閃き、アイデアといったものがより聖霊からもたらされるようになる。

Q&A

今回は普通に12の質問がありました。とても実用的な内容のものがあったので、2つほどピックアップしてみます。

Q1. 例えば、夫が私に腹を立てると、それが何日も続く主導権争い / 言い争いになったりします。その渦中にさなかに、なにかマントラのようなものを心の中で唱えながら自我への執着を手放すようにするべきでしょうか?それとも喧嘩が終わってからやった方がいいでしょうか?(赦しにおいては)先に感情を感じるべきなのですか?喧嘩のときにどうすべきか、順を追って教えてください。

(1:07) ゲイリー:「神の使者 (7章p309)」に赦しのステップが書いてある。赦しは、やればやるほど考える必要がなくなっていく。だからまずは、夫が君の怒りスイッチを押す時に(そして彼は必ずそれを押してくるだろうから)、「そのことに気づいて自分が反応するのをストップする」ところまで持っていきたい。反応した瞬間にそれを実在させてしまうからね。だが、コースが教えているのはその逆だ。それを実在にしないこと。それを実在のものとして捉えてしまうと、赦すことが出来なくなるからだ。

(1:08) コースで言う「奇跡の準備ができた状態(miracle readiness)」が大事だ。君は、夫がしょっちゅう喧嘩を仕掛けてくる事を知っているのだから、それに対する心の準備は出来ているはずだ。彼が君の怒りスイッチを押してきた時に、それに反応するかわりに「ほらきた!気づいたわ、彼がまたスイッチを押しに来た。でも私はもう、そんな事に引き込まれたりはしません。私はそれに反応しないし、実在させることもしない。そう思うと可笑しいわね、彼はいつも同じ事ばかりするのね」と考えて、自分が引きずり込まれないようにすることを、まずは目指してほしい。

(1:09) そもそも、彼が喧嘩を売るから赦すのではなく、それが起こっていないからこそ赦すんだ。君がみているものは真実ではない。彼の唯一の真実とは、完璧な一体性だ。彼を作り上げているのは君なんだ。彼に罪がない理由は、分離が一度も起こらなかったからだ。君が見ているのは、君が作り上げて投影したものだ。そんなものが君に本当に影響を及ぼすことなどできない(君がそれに力を与えて実在させるのでない限り)。

(1:10) 君は夢見ていて、そのことを忘れている。自分が夢をでっち上げていると気づけば赦すことは簡単になる。それが救済の秘訣だ。(中略) そうやって幻想ではなく霊(spirit)を選んでいくことで、自分が霊であることを認識する事に繋がっていくんだ。

Q2. 肉体的な痛みについて具体的な質問があります。私は数年前から、脊椎に感じる非常に鋭い痛みの症状に苦しんでいます。この状況をコースの観点からどう捉えたらよいのか分かりません。アドバイスをいただけませんか?

(1:14) ゲイリー:まず覚えておいて欲しいのは、君が脊椎に感じている痛みというのは脊椎のものではないということだ。痛みは君の心のなかにある。そもそも脊椎は実在のものではない。この肉体でさえも投影なのだから。君は肉体の中にいるのではない。それはトリックだ。そんなふうに見えるし、そんなふうに感じるけど、違うんだ。

(1:16) 君が脊椎に感じている痛みは脊椎にあるのではなく、君の心のなかにある。それは良い知らせだ。だって痛みが肉体にあるなら肉体を治すことを頑張るしかないけど、それが心にあると知ったなら、その事について自分の心を変えることができるから。聖霊の見方によれば、君が感じている痛みは罪悪感の働きだ。罪悪感がなければ痛みはないからね。ただし僕は、君が有罪だと言っているのではないよ。これは「君がそう思っている」という事なんだ。恐らく、意識的にではないかもしれない — ほとんどの罪悪感は無意識のものだからね。だがもし、その無意識の罪悪感のほうが癒やされるならば、痛みはなくなる。罪のない心は苦しむことができないからだ。

(1:17) 痛みについて、このように認識してみよう。
「私には痛みがある(身体のどこの痛みでも構わない)。そして実際の痛みは心の中にある。だが、私には罪はない。だから罪悪感がこの痛みを感じさせるのは誤りだ。なぜなら、私は一度も神から離れたことはないので、そもそも罪が存在する理由がないから。いままで私は自分が有罪だと思ってきた。だけど、そうじゃないんだ。この痛みは不要のものだ。私は神の完璧な創造物であり、天国を離れてはいないのだから」
。。。自分のことを、そう考えてみよう。それにつれてだんだん自我が訂正されていき、痛みの原因である罪悪感も訂正されていく。

*****

上記の2つのQ&Aは、自分がよく引っかかる「怒り」への対処方法と、肉体的な苦痛についての対処方法で、どちらもゲイリーの「こう考えるといいよ」という切り口がすごく分かりやすいと思いました。

ちょうどいまブログ引越し作業中で、まさに3年前に病気で苦しい思いをした頃の記録を読み返している最中だったので、2つめの肉体的な苦痛に関するアドバイスは当時の自分にマジで教えてあげたい。

あの頃はワークブックを始めたばかりで、肉体的な苦痛が何らかの罪悪感によるものだという事までは理解してたと思うのですが、そこで完全にスタックしてました。心を癒やすことよりも、この苦痛の原因となった罪悪感は何だろう?という分析のほうに関心が向かいがちだったので。(そもそも否認したものを自力でほじくり返せるわけがないし、病気は台本通りに起こっているので分析しても意味がないなと)

だから本来の建設的なアプローチとしては、ゲイリーが言うように「自分に罪はなく、本当は一度も神から離れていない」ということに思いを馳せるほうに重点を置くべきだったのでしょう。それで病気が治るわけじゃないだろうけど、少なくともそう考えたほうが心が癒やされるベクトル(病気であっても苦しまない)に向かいやすい気がする。

とはいえ、本気で苦しいときにこうしたことを思い出すのは、なかなか至難の業なんですけどね。。。平時の時からそう考える癖をつけておくことが大事なのでしょうね。

出典:神の使者 (河出書房新社) / Gary & Cindy Renard Online Classes (講座)

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