ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200429

新型コロナについて思うこと

4/19。

新型コロナ感染拡大と外出自粛の影響で世界的に経済活動がストップしてしまった4月。。。航空網もキャンセルが相次ぎ、海外のカミラちゃん達は今後数ヶ月のスパンで帰国を断念。最も感染者の多い東京では医療崩壊の危機が迫り、ロクザさんやウオキンなど都内の大手企業に勤める友達もみんなテレワークに移行しました。

そんな中、私が去年まで働いていた都心の某企業は4月に入っても通勤を継続しており、もしあのまま派遣を続けていたらどうなっていたことか。。。!(高齢の両親と同居しながら通勤を続けるには、かなり気を使う必要があったかも) 

しかも、いつまでもニートというわけには行かないので「今年はぼちぼちバイトでもしようかな〜」と思っていた矢先に、こんな事態になってしまった感じです。でも、こんなご時世に無理にバイトしてリスクを高める気にはなれず、まだまだ引きこもり生活は続きそう。。。


原発事故を思い出す
でも、こういう事は前にもあったよなーという既視感もあるのです。2011年3月の大震災と原発事故があったとき、私は大きな旅行から帰国したばかりで実家に戻っており、今と同じようなニート生活をしていたのでした。当時の私は被災者でもなんでもなく、(ぶっちゃけ計画停電にさえ当たらなかったので)痛くも痒くもなかったはずなのですが、実際は恐怖のあまり何日も寝込んでおりました。

あのころ報道では毎日、どこの水道で何ベクレル検出されたとか、どこの放射線量は何ミリシーベルトだとか、そんな話ばかりでした。特に最初のころは、日々の汚染ニュースが死ぬほど怖かったのを覚えています。それで小型の線量カウンターを持ち歩いたりしてましたし。

それが今の報道では毎日、東京都の感染者数は◯人を超えたとか、他県(他国)では死者◯人出たとか、そんな話ばかりです。私の友達のオフィスで実際に感染者が出たりしたので、だいぶ前から外出時にはアルコール消毒スプレーを持ち歩いたりしてますし。

こうして2つのストーリーを並べてみると、連日報道されている内容といい、行動様式の変化といい、まるでデジャヴを見ている気分になるのです。結局、シナリオ上のデータが置き換わってるだけで「我々の肉体が危険に晒されている」という根源的な部分でのメッセージ解釈はあまり変わってない気がするなー、と。

先行きの不透明さ
もうひとつ言うと、ゲイリーが言ってた100年前のスペイン風邪と呼ばれるパンデミックは非常に凄まじかったそうで、世界人口の1/3が感染し、5000万人〜1億人が亡くなったのだとか。(日本では約2300万人が感染し38万人の死者が出たというから桁違い)

そこで気になったのは、世界中のスペイン風邪が収束するまでに2年くらいかかった、ということでした。個人的には、新型コロナが広がりを見せはじめた2月頃には「どうせ1-2ヶ月で騒ぎはおさまるだろう」と楽観視していましたが、スペイン風邪の歴史を知ってからは「1-2年の長期戦もあり得るのか…」と考えを改めたところです。

だけど、考えてみればこのへんの長期性も原発事故の頃になんだか似ていて、当時は「放射性物質の半減期は◯◯年」とか「◯年後の癌発生率はチェルノブイリ以上」とか、数年単位でお先真っ暗。。。な話が飛び交っていたのを覚えています。そういう話を聞いていると、自分も癌になるのか。。。という気になってしまったりね。(奇しくも甲状腺癌になりましたけど… ^^;)

そんなこんなで、コロナによる影響が長期化するといった話を聞くと、なんだか先行きの不透明さや絶望感まで、当時とよく似てるよな〜と思うのです。

形態は違えど内容は…

もちろん放射線とウィルスでは影響の度合いも違うし、今回は日本だけの問題ではなく世界的な問題になっているという大きな違いもあると思います。また、原発事故で直接的な危険に晒された人々が限定的だったのに対し、今回のパンデミックでは全世界の人々(特に医療従事者)が危険に晒されているという構図も全然違います。

だけど、問題の規模だとか危険の種類だとかを理由に「あの時と今では状況が違う」とか「今回の方が問題が大きい」などと判断することは、要するに “旧・恐怖” と “新・恐怖” を天秤にかけて「今のほうが怖い」と納得するための方便なんじゃないかと。

つまり、自分が「恐怖(危険)は存在する」と思いたがってるのが先で、その信念の正しさを支持してくれる様々なデータに目が釘付けになっている、といったイメージでしょうか。

もちろんデータをしっかり吟味することは大切なことだと思います。でも、いったん理屈を抜きにして「ぶっちゃけ自分の本音はどうよ?」という部分だけに正直になってみれば、「怖い」とか「不安」みたいな漠然とした動揺に行き着くように思います。そういう意味で、原発事故もパンデミックも、形態は違えど内容はさほど変わらない側面があるように感じています。

*****

そんななか、学習者にとってのアドバンテージは「赦しを通じて全体の癒しに貢献できる」という事かも知れません。こんな非常事態でも、心のレベルで貢献できることはあるし、もっというと自分の役割(機能)を果たす機会と見ることもできるので。もしコースを知らなかったら「いかなる事態も教室として利用できる」といった(したたかな?)発想は出てこなかったと思うのです。

結局、コース的な赦しの対象というのは、(個々の外的な状況というより)その状況を前にして感じる動揺のほうだったりするので、自分がそういう「恐れに基づいた解釈」を無意識に選択している、と気づくことが第一歩なのかなと思ってます。

もっというと、恐れていること自体は別に構わなくて(聖霊は裁かないので)、ただ「その選択は真実ではないし、別の見方を選ぶこともできる」と心のどこかでチラッと思い出すかどうかが、梯子の最下段にいる自分にとっての課題なんでしょう。たとえ今ただちに平安を選択することが無理ゲーだとしても、そうできる可能性は決して失われないですし。

まあ、なんだかんだ言って「いまなら放射線とコロナどっちが怖い?」と聞かれたら、正直コロナのが怖い!(((゚゚Д゚゚))) って答えちゃいますし、自分や家族や友達が感染したり死んだりしたら、いまとは全く異なる次元の苦悩を味わう事になるのも容易に想像がつきます。でも、その時はその時で改めて向き合うしかないので、現時点で思うところを備忘録的に綴ってみた次第です。

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