パートナーとの問題を見つめる
2/26。
日本時間で2/26にFACIMから届いたニュースレターに、博士の講話CD The Attraction of Love からの抜粋が紹介されてました。メールの件名が「パートナーとの問題を見つめる」となってたので、ふーん、私にゃ関係ないかな〜(゚∀゚)と読み飛ばそうとしたら、そういう話じゃなかったです。orz
そこにあったのは、異性との関係における「怒り」をどのように見ていくかという内容で、しかもそれがパートナーの有無に関わらずめっちゃ自分に関係あってショックだったという(ToT)
※今回の抜粋はニュースレター専用でFACIMサイト掲載はありませんでした。時々こういうML読者オンリー話が飛んでくるので、とりあえず原文確保でメルマガ購読オススメです。
Looking at a problem with a partner
パートナーとの問題を見つめる
Student: Whenever I get mad at my partner, there’s always something…
生徒:私がパートナーに対して怒るとき、その奥底には常に、彼(の責任)とは全く関係のない何かが潜んでいます。これが私が見つめるべきものですか?
Kenneth: Yes. This is what really makes you mad. This is what you look at…
ケネス:そうです。それがあなたの怒りの本当の理由です。それこそが見つめるべきものです。いつだってあなたが怒って喧嘩をふっかけたくなる時には、毎回こう考えてください:まず「自分は怒っていて喧嘩を売りたい」ということを明らかにします。そのことを否定してはいけません。ですが同時に、そのことがあなたのパートナーとは何の関係もないことを認識します。
Student: But he’s a man. (laughter)
生徒:ですが、彼は男性ですよ。(笑)
Kenneth: And you married him, right? Well, that helps you look at a…
ケネス:そして、あなたは彼と結婚したんですよね?ならばそのことは、あなたのこれまでの全ての男性歴を見つめるのにも役立つでしょう — おそらく、あなたが人生で最初に出会った男性から始まって。それが、あなたが見ていくものです。そしてそれを見るということは、イエスが「自我の”力動論”(T-11.V)」というセクションで言っているように 「これを冷静に見させてください」ということです。可能な限り冷静に見ていってください。そして、そこでストップします。他に何もしてはいけません。ただそれを見つめるのです。解決しようとしたり、分析したりしないように。
ただそれを見つめながら、あなたのパートナーの背後に何百人もの他の男性たちがいることを認識しましょう — あなたの父親を始めとして。そしてあなたの父親の背後には神が存在するわけですが、とりあえずはそれは置いときましょう。とにかくそこには、あなたが言ったように、あなたに対して権力を振りかざした男性たちがいる、ということです。そして彼らはあなたの身体にも権力を行使したでしょう、幼い少女だった頃から。
ですが、そうしたことが今のあなたと何の関係があるでしょう?あなたが彼らをどのように都合よく利用しているかを認識しましょう。そして今、あなたは自分のパートナーを都合よく利用しています — そうすれば自分自身の見方は何も変えなくて済むからです。それだけのことです。
Think about the line in chapter 27, where Jesus talks about how you end…
27章でイエスが言っていた”全ての苦しみの終わらせ方”について考えてみましょう。「必要なことは、問題を自分が設定したようにではなく、ありのままに見ることだけである(T-27.VII.2.2)」彼が言ってるのはそれだけです。ありのままに見ること。ですから問題はあなたのパートナーではないのです。あなたが彼を問題だとして設定したのです。彼が問題なのではありません。本当の問題は、あなたが本来の自分より卑小な在り方でいようと決断したことです。そしてその責任を受け入れるかわりに「そうね、私が本来の自分より卑小である理由は、私の人生に現れる不愉快な男性たちが私にひどいことをするからだわ」と思っていることです。そしたらそこでストップ。それだけでいいのです。ただ責任を受け入れ、そこでストップします。
The worst thing to do is to try to fix the problem, because there is no problem…
最悪のことは、問題を解決しようと試みることです。なぜならそこには問題など無いからです。その問題はでっちあげです。ですから、あなたが問題を解決しようと試みるときは「そこに問題がある」と宣言することになり、その時点であなたは自我のものなのです。
覚えておいてください。”花崗岩でできた強固な壁も実は薄っぺらなベールにすぎない”というときに、あなたが花崗岩の壁をなんとかしようとして奮闘するのなら、あなたはそれを「花崗岩の壁だ」と宣言していることになります。ですがもし、あなたがそのことを裁かずに見るのであれば、それはただ消滅します。それは無だからです。
ただしこれは、この世界で行動を通じて問題を解決してはいけない、という意味ではありません。それが意味するのはただ、あなたが問題の解決のために行動を起こしているときにも、”そこには問題などない”と認識していることです。あなたはただ行動するだけ。ですが、心理的にその問題に入れ込んではいません。いちど入れ込んでしまうと、あなたはそれが花崗岩の壁で、本物の問題で、自分がそれを解決しなきゃいけない、と宣言することになるからです。
それを本当に解決する方法は赦しです。あなたが赦しを通じて解決するやり方とは、それを見つめることです。するとそれは花崗岩の壁であることをやめます。つまりそれ以上解決すべきことがなくなる、ということです。
ワプニック博士による講話 “The Attraction of Love” からの抜粋
*****
うーん。。。
1人の男性パートナーに対する怒りの裏に、今まで出会ってきた男性全員への怒り、ひいては神に対する怒りまでが凝縮されている。。。!?こっちとしてはそんな多層的な話は考えたくないんですけど、自分が今まで男性に噛み付いてきた記憶を辿ってみると、実際そうとしか思えないほど似たようなパターンがたしかに繰り返されてたりするわけです。
つまり、自分が隠し持ってる罪悪感をなすりつける相手さえいれば誰でも良かったとも言えるわけで、私ったらまるで「むしゃくしゃしてたから殺った。誰でも良かった」みたく開き直ってる通り魔と同じじゃーん Σ(゚Д゚)
もっと言うと、仕事辞めて身近に男性がいなくなった今は、最も特別な関係であるパパリンをスケープゴートにしてる可能性が濃厚だし。。。orz
うわー、見つめるのいやだあー。(はいストップ)
あともうひとつ気づいたこと。
博士が今回の質問者に対してかなり核心を突いた指摘をしているのは、この質問者がすでに多くのことに気づいていたからだと感じました。受け止めレンジが広い人に対してはストレートに真実を伝えてくれるという、分かりやすい例かも。
逆に、もし質問者がビギナーさんだったら、あるいは性犯罪の被害者だったら、もっと別の伝え方をしただろうな、ということです。当たり前といえば当たり前ですが。
博士の回答は決してブレないけど、必ず相手の許容範囲(安心して受け止められる範囲)に応じた言葉を選んでいる、といった親切さがあるように思います。前にも「愛から発する言動は必ず相手にとって最適な形となる」という話を読んだ気がしますが、博士のこうした絶妙な配慮は、そこから来ているのかも知れません。
(私にだったらなんて言うかなーーー??などと妄想中。。。)
出典:The Attraction of Love (FACIM)
コメント