ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20181208

自分の善意に頼らないこと

12/2。

先日の海外遠征行く行かない問題のとき、テディさんに教わった動画がすごく役に立った件の紹介です。ワプニック博士による「あなた自身の善意を信頼してはならない」について、自分なりに要約してみました。

動画↓
Trust not your good intentions (5:45)
https://youtu.be/JdMkTejZzzc

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今日はテキストの『あなた自身の善意を信頼してはならない。それだけでは足りないのである。(T-18.IV.2)』について話します。だれでも、良い動機に基づいて慈善的な活動をしている善良な人々について知っているかと思います。彼らは、人々の苦しみを和らげ、悪条件な環境を改善し、困っている人々に対して常に親切です。当然ながら、このコースも人々に助けを差し伸べることに反対したりしません(してたら大変です)。

イエスが我々に注意を促しているのは、「助けになる」こととの間に特別な関係を築いてしまうことです。その善意が自我の特別性の目的に取って代わられてしまうことがあるからです。例えば、「私は自分を最悪だと思ってるけど、他の人を助ければ最高の気分になれる」「私の人生は全く無駄だけど、世界を飢餓から救うことに貢献すれば意味ある人生になる」etc…。繰り返しますが、イエスは私たちが行動面において何をすべきとかすべきでないとかは一切言いません。イエスは常に私たちの心を指さして、問題も解決策もそこにあると教えているのです。

こうした善良な慈善活動家がいかに微妙な悪意をもちうるか、ひとつ分かりやすい例を挙げます。それは、「私には、困難に陥っている人々が必要だ。なぜなら、困難にいる人々を助けると私の気分が良くなるから」というものです。それは、人々が苦しむことを暗に要求します。「私だけが解決してあげられる問題」に、人々が直面することを要求してしまうのです。もちろん、すべての慈善家がそうだと言ってるわけではありません。しかしこの考えは非常にしばしば彼らに忍び込む傾向があります。言い換えると、自分の気分が良くなるために、他者の不幸にダイレクトに依存してしまうのです。自分の幸福感というものが、他者の問題や苦痛に左右されるとしたら、文字通り何かがおかしいのです。

繰り返しますが、もし私が善良な活動によって人々を助けようとするなら、そこに助けを必要とする人々が存在しなければなりません。このとき私が行っていることは、「祈りの歌」からの言い回しを借りるなら、「破壊するための助け」ということになります。イエスは「祈りの歌」の「赦し(S-2)」や「癒し(S-3)」において、私たちが自我を通じて赦しや癒しを行うとき、実際には分離を教えていると指摘しています。それは、私たちに神の子として内在している同一性を教える代わりに、違いを教えてしまうのです。私があなたの罪を赦しますというとき、実際には「お前は罪人だから私が赦す、我々は異なる存在だ」と言っています。また、私にはあなたを癒せる特定のパワーや能力があると言うとき、実際には「お前は病人だが私はヒーラーだ、我々は異なる存在だ」と言っているのです。

「祈りの歌」に限らず、コース全体が教えようとしているのは、私たちがみな同一であるということです。私たちはみな苦しんでいて、癒しを必要としています。私たち全員が病んでいますが、正しい心の選択を通じて癒やす力も全員が持っています。形態は違うかも知れませんが、私たちはみな同じなのです。

ですから、私が人々の痛みや苦しみを必要としたり、私の専門知識や慈悲心や寛大さが求められる世界的な状況を必要とするなら、「私は彼らとは違う」と言っていることになります。ある人は他者より優れていて、他者より能力や才能があると説いているのと同じです。そうやって「違い」や「分離」を説くことにより、我々全員が共有している病んだ想念をむしろ強化してしまうのです。

私たちは、肉体のレベルでは全員が異なっている以上、幻想のなかの形態のレベルにおいては違いは存在すると言えるでしょう。しかし、唯一の真実である心のレベルにおいて、そのような考えは、私たちが取り消したいと思っている幻想そのものをさらに作り出してしまうのです。

ですから私たちは、他の人を助けようとするとき、実際は何に投資しているのか、その動機は何なのかをとても注意深く見張る必要があります。先に述べたとおり、私たちの善意だけでは足りないのです。私たちの善意は、私たちの正しい心の決断と結ばれる必要があります。何を行うにしても、誰とやるにしても、それは私たち全体が参加しているより大きな教室のなかで、同じ教師から同じ叡智を学ぶためです。それは、この世界の何ものも、どんな方法も形態も、私たちに影響を与えることはできない、ということです。

全ての苦しみは同じです。なぜならすべての苦しみは、私たちが源である神からの分離を信じたという、同じ間違いから派生したからです。そして、全ての苦しみが同じだからこそ、全ての癒し方も同じです — 「分離は一度も起きず、私たちは父の家を一度も離れなかった」という贖罪を受け入れることです。

そのように、神の子万有の同一性を通じて世界を見ることによって、天国の全一性が世界に反映されます。私たちはみな同じ自我の思考体系を共有しています。私たちはみな同じ聖霊による訂正と、それを選択する力を共有しています。私たちは同じです。違いなどありません。

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今はもう遠征は行かないと決めたので迷いはないですが、この動画を初めて見たときはまだ、行くか行かないか心を決めかねていた時期でした。

私自身は別に世界の○○を救いたい!みたいな分かりやすい善意の志はないですが、これを見てるうちに、自分の心の底にミヤビさんを救いたい意図が隠れていた事に気付かされました。この自我丸出しな善意によって知らないうちに「私の助けを必要とするミヤビさん」という状況を生み出していたとしたらアレですね。。。

個人的には、彼女に恩義がありすぎて断れないのが問題だと思ってきたわけですが、ミヤビさんが問題なんじゃなくて、実は私のほうが問題だったのかも!?という視点は、自分にとって思いもよらない衝撃でした。

その晩はこのことを考えながら眠りについて、翌日モモコさんと会って話したらストンと腑落ちできたという話は先日書いたとおりです。何ヶ月も悩むのが確実と思われた「行く行かない問題」は、こんなふうにして割とあっけなく決着したのでした。

私が悶々としてるとき、こういうドンピシャ動画をさりげなく差し出してくれる先輩テディさんに重ねて感謝です。m(_ _)m

出典: Trust not your good intentions (FACIM)

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