恐怖感にボコボコにされながら
後日談というか、続きです。
たった一日恐怖感に襲われただけで、その後何日にもわたる体調不良に陥ったというのはトベにとっても初めての経験でした。
夏休み明けに出社したときも体調は悪く、何とか通勤はできるものの、身体に力は入らないし食欲もないしでちゃんと定時まで仕事できるかどうかギリギリの状態が一週間ほど続きました。
で、思ったわけです。「まじで恐怖のパワーは侮れない。。。」
そもそも今回のトベの恐怖は事実に基づくものではなく、妄想の恐怖ですよ?
それなのに、結果としてこんなに何日も病的な状態に陥るなんて、単なる考えにしては破壊力がありすぎる。確かに心というのは、自分が思っていた以上に大きな力を持っているのかも知れない。
奇跡講座 テキスト (T-2. VII. 9:10)
『あなたは自分の想念には真の影響力がないと信じるほうを好んでいる。というのも、実はあなたが自分の想念を恐れているからである。そう信じることで罪悪感の自覚は弱まるかもしれないが、それは、心を無力なものとして知覚するという代償を払った上のことである。自分の考えることが何の結果ももたらさないと信じるなら、あなたはそれを恐れなくなるかもしれないが、それに敬意を払うことはほとんどあり得ない。無為な想念というものはない。すべての思考は何らかのレベルで形を生み出す。』
はい。。。今まで自分の想念を過小評価してました。。。
そこで閃きました。
もし自分の恐ろしい考えが身体にこんなに即席ダメージを与える事ができるなら、恐れとは正反対の考えを持てば健康が回復することも可能なんじゃないか?もし愛や喜びの感情が先行すれば、身体に癒やしのインパクトを与えるのでは?
とは言っても、そのような愛の想念が自然に湧きだしてこないからこのような体たらくに陥っているわけで。。。
その対策として最近試行錯誤してることはこんな感じです:
・テキストやゲイリー本を毎日読んで基本的な教えを忘れないようにする。
・恐ろしい考えが湧き上がってきたら、聖霊に委ねて取り消しを依頼する。
・本当の自分は身体ではなく、全ての出来事は学びのためにあると思い出す。
・眠る前に聖霊の祭壇に自分の問題を捧げる瞑想をする。
・身の回りで患っている人々について、彼らの真の姿(完璧性)を思い描く。
・助けてくれる人が現れたら、聖霊のメッセージと思って素直に受け取る。
トベのことだから、いつも正しい考え方を覚えていられるわけではないので、思いついた順にできることをやってみている感じです。
特に、身体から力が抜けるような恐怖感から抜け出せないようなときは、「こうすれば絶対に恐怖が消える」という万能メソッドはないみたいでした。なんというか、いま断続的に襲われている恐怖感は、自分の努力と意志でエイヤと消すのはほぼムリで、いくつかの赦しの試みをいろいろ試しているうちの「何か」のタイミングで、魔法のように瞬間的に消え去ることがたびたびあったからです。
たとえば、ある時は仕事中に死の恐怖でひどく気分が悪くなり、こんな身体ではもう仕事は辞めるしかないかも。。。と弱気になっていたとき、テキストの
(T-2.VI.2:5)『真実を言えば、あなたは自分の考えることにこそ責任がある。なぜならあなたが選択権を行使できるのはこのレベルにおいてのみだからである。』
という一節を思い出し、「そうか自分には選択権があるのか」と思った瞬間にウソみたいに恐怖感が消えて体調が回復したことがあります。
一方である夜は、死んだ方がマシかもと思うような心理的苦痛が続いていて、テキストを読んだくらいじゃ全然効き目がない状態でした。でも、そんな時にタイムリーに遠方のトミーさんから何気ない連絡が来て、相談に乗って貰ったりすると、気がついたときにはすっかり心身が回復している、みたいな事もありました。
なんというか、救われる時は毎回異なる状況で、何が効くかはその時になるまで分からない感じです。また、救われる時は常に、ほとんど一瞬にして何事もなかったかのように心身の体調が回復する、という実に不思議な現れ方をします。(でも、いつその回復が訪れるか自分には分からないので、それまでの間が永遠に感じられるような地獄なのですが。。。)
***
後日、ワプニック博士の「奇跡の原理」を読んでいて、これが上記の現象の答えなのかな?と思うような箇所がありました。
奇跡の原理 p71
『私たちは奇跡を選択しますが、奇跡を行うのは私たちではありません。奇跡は聖霊の助けがなければ為されることはありえません。それが、「意図せずに起こる」、および、「意識的な制御下に置かれるべきものではない」という言葉の意味です。「テキスト」の第二章で、イエスは彼からの指導と彼による制御について述べています。彼は、私たちが自分の恐れや分離の想念のすべてを彼に引き渡さなければならないと言っています。それによって、彼が私たちのためにそれらの考えを制御できるようになるためです。そうすれば、彼は私たちを導くことができます。けれども、これを私たちは自分でやろうとしてはいけないのです。
そうかー。。。だから、自分で「健康を回復するために愛の想念を持とう!」などと思って努力しても上手くいくはずがないのか。
なんだかよく分からないけど、自分が学習した範囲内であれこれ思い出しながら赦しの教えを試す中で、(どれかひとつでも当たりがあって)たった一瞬でも聖霊が私の心を制御できる状態になったなら。。。その瞬間にミラクルな癒しが現れるという事?
というかACIMはそもそも身体の癒しを目的としていないので、私がいままで「とつぜん恐怖が消えて体調が回復した!」と思ったような出来事はすべて、私の心が何らかの形で癒された結果であるということなのかな。
でもこの恐怖感、本当にいつまで続くんだろう。。。orz
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / 奇跡の原理 (中央アート出版社)
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