自我はなぜACIMに協力できる?
ACIMについて、トベがだいぶ前から不思議だった事があります。それは、ACIMの行き先が自我の訂正であると明言されているのに、実際に「赦しを実践しよう」とか「ワークブックをやろう」とか考えて実行に移すのは自分の自我(私という意識=自我)だったりするからです。
ゲイリー本とか奇跡講座のテキスト編を読むときとかも、「なるほど〜。そうか自我の訂正か〜。すごいな〜」などと頷きながら読んでいるのもトベの自我の一部です。でもそれって、自我にとっては「完全自殺マニュアル」を読んで盛り上がってるのと変わらない奇妙な構図だなあ、と。
まあ、トベの自己認識が把握している「私」はほんの表層的な一部であって、水面下の知られざる自我の全貌にとってはもっと複雑に自己温存できる仕組みがあるのでしょう。表向きACIM学習に協力しつつ、外界にはさまざまな問題を投影しまくる戦略で楽勝だぜ!という事なのかも知れないし。
去年、ぼんやりとそんな事を考えていたときに、ふっと何かに気がついた感じがしてメモを残していました。その時の要点をまとめます:
*****自分メモ*****
ACIMテキストが述べている通り、聖霊のやり方と自我のやり方が相容れる事は全くあり得ない。しかしながら、かたちの面において、まるで聖霊と自我の利害が一致するかのように見える特異な考えがある。それが「赦し」である。
分離や差別化を好む自我は、ACIMや赦しの実践を通じて、自分が他の人よりスピリチュアル的に特別な存在になれるという優越感を得られたり、赦すことで将来の不幸を避けられるかも知れないという利己的な計算もはたらく。
そのようにして自我が赦しの思考回路を自己中心的に受け入れている間に、聖霊は心の中から少しずつ恐怖や罪悪感を訂正していく。些細な赦しがもたらす小さな罪悪感の取り消しは、自我にとって脅威とはならないので、その間に聖霊は粛々と癒しをすすめていく。
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上記は、トベの思いつきなので間違ってるかも知れません。でもとりあえず現時点では、この考えが思い浮かんだときに、なんかモヤモヤしてた事が腑に落ちたような気がしたんですよね。
ちなみに、去年これを思いついた時に忘れちゃいけないと思ってメモを残したまではいいんですが。。。その後まんまと内容を忘れて、その後はやりたい放題でしたねえ。
( ´Д`)y━・~~
「何やらくだらない事でブチ切れたり、噛み付いたりしてましたな。」
「そのことは言わないで。。。orz」
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