読書会 JTT-17章(1) 二つの絵
1/7。
年末年始をはさんでいたのと、都内の感染者数が景気よく記録更新しまくってるという事もあり、なんだかんだで読書会メンバーとは会えずに引きこもりが続いています。せっかく17章まで来たし、せめてJTT本だけは読んどこう。。。
教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.3)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。
Chapter 17 — Forgiveness and the Holy Relationship (1)
17章はわりと印象に残りやすいセクションがあります。その筆頭である「二つの絵(T-17.IV)」ですが、ここはビジュアル的に強烈な描写があって、一度読んだら忘れられないかも。。。
一言でいうと「超絶ゴージャスで分厚い額縁の奥にあるよく見えない絵」と「簡素な額縁におさめられた光のなかの美しい絵」を対比したものですが、博士はこの「二つの絵」について17章全体でかなり力を入れて解説している感じでした。
自我の額縁
「二つの絵」をよく読んでみると、”自我の額縁” のほう — つまり特別な関係の魅力についての解説に重点が置かれている印象でした。ここでいう特別な関係とは、人間関係のことだけではなく、あらゆる対象との関係性(たとえば飲酒、ドラッグ、食事、セックス、金、アイデアetc.)を含むことに留意すると一層分かりやすいかも。
No.17464/p13 The ego’s frame looks so wonderfully attractive and valuable. However, when we approach it, seeing that the rubies are really drops of blood and the diamonds tears of pain, the allure of the special relationship quickly gives way to the picture of guilt and death hiding within the frame…
“自我の額縁”は高価な宝石がちりばめられたとんでもない豪華さで、一見すばらしく魅力的で高い価値があるように見えます。誰もが中の絵よりも額縁のほうに心を奪われてしまうそうで、えらいこっちゃ。この額縁というのが「特別な関係」のことで、人間関係の愛憎に執着したり、お金や地位に心を奪われたり、美食や高級車や豪邸などを追い求めたり、思想に溺れたりすることなど、あらゆる特別性を象徴しているそうです。
しかし、我々が魅惑の額縁のほうに近づいていくと、実はルビーは血の滴りでダイヤモンドは苦痛の涙。。。という具合で、特別な関係の魅力はあっという間に、額縁の中に隠された「罪悪と死」の絵に道を譲るのでした。これは私たちがこの世で何を手に入れようが、最終的に失望や喪失に取って代わることを象徴しているようですね。
博士がこれについて防衛という切り口で解説してたのが興味深かったです。
No.17454/p13 Defenses tell us we are free from fear. Yet we cannot have one without the other, the frame without the picture — ideas leave not their source, defenses leave not the underlying problem…
この魅力的な額縁というのは「私たちの恐れに対する防衛」を表しているといいます。その防衛とは、私たちが恐れから自由であるかのように偽装する「投影という責任回避」のこと。
しかし”想念はその源を離れない(ideas leave not their source)”の法則どおり、その防衛はそれ自身の源となっている問題を離れることはありません。そのことを象徴的に表しているのが「額縁(恐れに対する防衛)」+「絵(罪悪と死)」というセット関係であり、この2つは本質的に同じものなのだそうです。
額縁はめっちゃ魅力的にクッキリハッキリ見えるのに、その奥の肝心な絵が全然見えにくい…ってとこがミソですかね(問題の隠蔽)。でも、絵と額縁は本質的に不可分なので、訂正されない罪悪は表面に浮上し続け、我々を幻想の罠にかけながら温存され続けるという仕組みなのだとか。ひいいいい。
二つの絵
なんでこんなに “自我の額縁+絵” の説明が続くかというと、イエスが私たちに「自我の特別性の仕組みの醜悪さを見るように助けてくれている」からだといいます。つまり、私たちの「特別な関係(人間関係に限らず)」をよくよく吟味すれば、それが見た目通りのものではなかったと分かり、ひとたびその破壊的な目的に気づいたならば、きっぱりと選び直すモチベーションUPになるだろう、ということです。テキストには、
「絵のほうを見なさい。額縁に気を取られてはならない…。(T-17.IV.9)」
という箇所があるんですが、
No.17498/p14 The process Jesus describes for us is the shift from physical form to wrong-minded content. This allows us to make the meaningful change from the mind’s conflict to the mind’s forgiveness.
“額縁じゃなくて絵をみなさい” という表現は、物理的な「形態(額縁)」から、誤った心の「内容(絵)」へのシフトを促すものとのこと。
ここにも “形態 vs. 内容” の関係があったとは目からウロコでした。言われてみれば納得だけど、額縁と絵の関係性をそんな風に考えたことはなかったかも。
このシフトが、私たちの「心の葛藤」から「心の赦し」へと意味ある変化をもたらすのだそうです。
そんな感じで、”自我の額縁+絵” というのは「特別性の魅力+罪悪と死」であったり、「恐れに対する防衛+問題の源」であったり、「形態vs.内容」であったりと、様々な角度から見たかなり奥行きのある解説になっていたと思います。
No.17918/p26 Once we look at the ego we realize its inherent nothingness, and then it disappears. But we must first look at the specialness that is offered us, for only then can we say and mean that we no longer want the ego’s gifts of guilt…
ひとたび私たちが自我を見つめれば、私たちはその本質的な虚無を認識し、それは消え去ります。しかし私たちはまず、私たちに差し出された特別性を見ていかなければなりません。それからでなければ、私たちは「もう自我の罪悪や苦痛(しばしば快楽の仮面をかぶっている)や死の贈り物は要りません」と言うことができないからです。
私たちの目が真実にむかって開かれてゆくにつれ、正気の決断がクリアに見えるようになり、自我の闇はその意味を失っていきます。なぜならその闇は、私たちが “至福に見せかけた安ぴか物” に価値を与えることなしには存在できないから;そして、自我の誘惑は、心が肉体の特別性の世界に投資することによってしか保持することができないからです。
愛を装った幻想をありのままに見たなら、私たちはようやく、イエスが差し出す真の愛を欲するようになります:正しい額縁のなかの、より好ましい絵(=聖霊の絵)のほうを。
聖霊の絵
ここでやっと出てきた “聖霊の絵” のほうはというと、テキストに、
「もう一方の絵は、簡素な額縁に囲まれ、光の中に掛けられ、その本質のゆえに見た目も麗しい。(T-17.IV.12:11)」
。。。とあります。実は “聖霊の絵” のほうはJTT本では意外と解説が少なかったのですが、ひとつ言えるのは、それが「聖なる関係」や「聖なる瞬間」を表しているということです。
聖なる関係とは、決断を行う心が「裁かずに自我を見つめる」プロセスであるとのこと。やや抽象的ではありますが、これが赦しに不可欠な要素であることは耳タコで言われてきたのでとりあえず納得。ただ、このことを理解していないと、私たちはいつまでたっても「聖なる関係」を「人対人の特別な関係の修正」とみなす誘惑に晒されつづけることになってしまうのだとか。
つまりJTT本では「裁かずに自我を見つめる」という必要性から、全体的に”自我の絵”のほうにウェイトをおいた解説になっていたんだろうな、と思った次第。
とはいえ実践においては、私たちは絶えず「特別な関係〜聖なる関係」を行きつ戻りつすることになるといいます。そのシーソー状態がいつまで続くかというと、私たちの恐れが減少し、私たちが聖なる関係/聖なる瞬間(=実相世界にいるのと同じ状態)にとどまれるようになるまでの間らしい。
それって結局、旅路の最後までそうだってことですね。
焦らない焦らない。。。(^_^;)
*****
さて17章のもう一つは「ゴールの設定」というセクションです。これは終盤の「決断のためのルール」とも関係してくるっぽいので大事かも?次でまとめてみようと思います。
というわけで、次回 Chapter 17 (その2)に続きます!
出典:奇跡講座 上巻 テキスト (中央アート出版社) / Journey through the Text of A Course in Miracles (FACIM)
コメント
お疲れ様です!
今週も更新楽しみにお待ちしておりました。
正直、コースの言う「特別な関係」って、
これまでピンと来ていなかったのですが、
今回の記事を読んで、わたしなりに気づきを得ることができたように思いました。
どんな気づきかと申しますと、
「特別な関係」とは、つまりは「接着剤」のことなんだなあと。
何と何をくっつける接着剤かと言えば、
わたしたちの心と世界をくっつける接着剤です。
この世界におけるあらゆるものと特別な関係を築くことによって、
わたしたちの心はべったりと世界にくっつき、
それによって、世界から離れることができなくなっているのだなあと思いました。
そういうこともあって、
仏教では、世界におけるあらゆる特別な関係から、
物理的に離れる出家という道があるわけなのですが、
でも、コース的には、このような回避行動は、
世界を実在させているにすぎないと否定的なんですよね。
わたしの考えでは、コースの学習者としては、
このような回避行動を取ることは失格かと思いますが、
数多ある霊性の道の一つとして、
特別な関係から離れて、ひとり山の中で瞑想に明け暮れる日々を送るという道もあるのだろうと考えてます。
じゃないと、数多ある道から仏教が除外されてしまいますからねw
(仏教にもいろいろありますので、一括りにはできませんが)
この点に関しては、コースの中でイエスも認めていると思ってます。
「ただ、それ(瞑想)は退屈な道だけど」って、
ちょっと皮肉っぽいことを言っていますがw
で、特別な関係を接着剤とすると、コースにおける「赦し」とは、
接着剤を溶かす「溶液」と言っても良いのかなあと思いました。
以上、今回のTobbeさんの記事を読んでの、わたしなりの気づきでした。
また次回、楽しみにしてますね~(^^)/
山本さん、ありがとうございます!特別な関係が「接着剤」で、赦しが「溶剤」という例えは分かりやすいですね〜😁 世界にベッタリというイメージがしっくりきます!
ちょうど、ご指摘の”瞑想”に関するセクション(T-18.VII)を読んでたとこでした。
瞑想の成果については肯定的なのに、「時間がかかる」という評価なのが興味深いです。だからといって、コースの言う「時間を省く方法」が万人向けかというと、かなり微妙ですよね。(何でも自分に責任があるというのは、人によっては心を病んでしまうかも…)。なのでやはり、各人に適したさまざまな霊性の道がリスペクトされるべきなのでしょうね。
各人に適してさまざまな霊性の道がリスペクトされるべきって、
ほんとその通りですよね~。
コースが合っている人は、
本を読むのがわりと好きで、
理屈っぽく考えることが好きな人じゃないと、
難しいんじゃないかなって思ったりします。
で、そういう人って、
わりと自分の能力に自信がある人が多いように思うので、
そういう人たちの自信を打ち砕き、自我を破壊させるために、
コースはあれだけ難解なのかなあって、思ったりするんですよねw
あと、「瞑想」についてなのですが、
コースの実践もある意味瞑想なんじゃないかなって思っていたりします。
道元の言葉に、「非思量底を思量す」というものがあるのですが、
わたしはこの言葉の意味を「自我の思考体系が湧き出てくる源を眺める」、
つまり、「聖霊と共に、自我の思考を眺める」ということと同じではないかと解釈しています。
あと、これは最近の個人的な気づきなのですが、
自分はわりと書くことが好きなのかなあと思い、
書きながら気づきを得ていくところがあるような気がするので、
書きまくったほうが良いのではないかと思うようになりました。
そんなわけで、最近は少々暴走気味なところがある山本なのですが、
目に余るようでしたら、やんわりとたしなめていただくか、
適当にスルーしていただけたら、うれしく思います
山本さん、絶好調で何よりです!
コースは理論面ややこしいですよね〜。まあ既存宗教の理論体系(聖典山盛り)に比べればシンプルとはいえ、これだけの深さのものを在家で学ぶとなると頭パンクしますよね。😅
コースは瞑想などを通じて成果が得られることは否定してないし(T-18.VII)、実際ワークブック後半なんか実に瞑想的と思います。でも指示が抽象的すぎて(心を静かにする/◯分を捧げるetc.)詳しい坐り方とか全然教えてくれない。訳わかめでした。笑
でもそれは、コースが ”肉体を伴う所作” に重きを置かない(=心のみを扱う)という表明でもあるのでしょう。とはいえ、瞑想が最終的に導く境地はどの道も同じなんだろうな〜✨と想像しております(私の場合は体験伴ってないので想像しかできないけど…)。
テキストはほんと難しいです。
あれは、理解しようとして理解するものではなく、
理解しようとしなくても理解できるところだけを理解していくというのが、
良いような気がします。
でないと、ほんと、頭がパンクします。
これまで何度、コースによって頭がパンクさせられ、
知恵熱を出して、寝込んでしまったか、数えきれないほどであります。
コースの実践が瞑想的というのは、
ある程度の学習者の方なら、ある意味、常識だったんですね。
でもほんと、一口に「瞑想」と言っても、
そこからイメージするものは、さまざまなんでしょうね。
Tobbeさんがおっしゃっている通り、ランニングを瞑想として捉えて走っている人もいますし、
禅などでは、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、つまり生活全般すべてを瞑想として捉えていたりしますからね。
そういう意味では、毎日、毎時間、毎分、刻一刻、全てを奇跡に捧げようとする、コースの実践は、禅的なのかも。
コースは肉体を伴う所作に重きを置かないということですが、
禅においても、自分の意図で肉体を動かそうとするのではなく、
他力に身を任せたときに自然と現れ出てくる周囲と調和した動きを重視しているようにも思え、
まずは心優先という感じもするので、
コースも禅も、じつは同じことを言っているのではないか、そんな気もする、
わたくし山本なのでございました。
「無念の念を念として歌うも舞うも法(のり)の声」
度々失礼いたします!
ジョギング中、
ちょっとした気づきがありました。
「各人に適してさまざまな霊性の道がリスペクトされるべき」
ということなのですが、
全ての霊性の道の奥には神の愛が反映されていて、
その愛を感じることによって、
自然とリスペクトという感情が起こってくるのではないかなあと。
そのように思えることで、
コースが数多ある霊性の道の中のひとつの道に過ぎないということが、
自然と了解されるのではないかと、そんな気がしました。
そして、
これは「すべてを同じとして見る」ということとも通じるのかなと。
ジョギング中🏃♂️ですか!シェアありがとうございます。
きっと走るということも一種の瞑想なんでしょうねー。
全ての霊性の道には愛が反映されているというのは、私も同感です!どの道を通っても、最終的にすべてが統合される方向に向かうのでしょうね(想像)。
いろんな道の違いではなく、共通点に注目してる所が素敵だな〜って思いました😊
共通点に注目しちゃうのは、
ジョーゼフ・キャンベルの影響が大きいかもです。
キャンベルいわく、
「世界の神話に共通した要素を発見し、 人間心理の奥底には絶えず中心に近づきたい、 つまり、深い原理に近づきたいという欲求があることを指摘することだ」とのことです。
コースによると、
わたしたちは無意識に神を恐れているということですが、
でもやっぱり、神の元へと戻りたいという欲求があるので、
どんなに抵抗が強くても、コースから離れることができないんでしょうね。