ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20200107

天使たちとともに見る

1/4。

遅れ馳せながら、あけましておめでとうございます。
最近FACIMのタイムラインに流れてきたWatching with Angels (Part2)というワプニック博士の講話CDからの抜粋が心から離れなかったので、久々にメモをとってみました。実際はFACIMの抜粋だけで2ページに及ぶのですが、その中の一部を紹介します。

内容は、”私たちに赦しを実践する準備が出来ていなくても全然構わないけど、少なくとも「自分にはまだ準備が出来ていない」という事を正直に見つめるだけでも大きな一歩になる”、というものです。なんかその一言に救われる。。。

Watching with Angels – Part 2 of 2より抜粋:

We just need a little space within our very busy day filled with…
私たちに必要なのはただ、自分のやることで忙殺される日常のなかの「小さな隙間」なのです。私たちはその忙しさを、世界や、他者や、私達自身に対して非常に重要だと思っていますが、私たちに必要なのはほんの小さな隙間です。いくばくかの中休み(休息)の瞬間を通じて、この世界が狂っていることや、世界があると信じている私達自身の狂気などに気づくことです。
たとえ、私たちが”正しい心であれば行うであろうこと” を行う準備が出来ていなくても、私たちが全ての人々を完璧に赦す準備が出来ていなくても、私たちの内にある神の愛を延長させ一人の例外もなく抱擁する準備が出来ていなくても、私たちが過去を完全に手放す準備が出来ていなくても、私たちの未来や来たるべきことへの恐れを手放す準備が出来ていなくても、私たちが毎朝鏡を見て「これには意味がない、これは無だ」と言う準備が出来ていなかったとしても。。。私たちがどんなに準備が出来ていなくても、少なくとも「私たちには準備が出来ていない」と知ることはできます。

So when we talk about watching with angels, angels being symbols…
ですから、私たちが「天使たちとともに見る(L303)」というとき、天使たちというのは”私たちの正しい心の想念”の象徴です。「天使たちとともに見る」が意味しているのは、”聖霊よりも自我を選択する私たち自身を眺めること” なのです。私たちが独自性を弱めるどころか独自性の強化を選択するところを、そして自我の武器庫にあるあらゆる手段で「私たち自身」だと信じている分離した自己を強化するところを、私たちが眺めるということです。私たちに言われている「天使たちとともに見る」という事は、そうした事を行う私達自身を見ること — 「私はこれが作り物だと知っているけど、それを変えたくはない。少なくとも今日ではない」と思ってることをどこかで教えてくれる、優しく、穏やかな微笑みとともに見ることなのです。

So the “nod to God,” the little willingness, the few instants of…
ですから「神への会釈 (T-24.VI.12:4)」、ほんのわずかな意欲、数秒間の休息(W-pI.182.5:4)、というのはすべて、「私は自分が何をやらかしているか知ってるし、準備が出来てないのも分かっている。私は準備段階の準備さえ出来てないけれども、少なくとも準備段階の準備が出来ていないということだけは理解している」…と言っている私の一部を反映している言葉になります。

The Course says readiness does not mean mastery (M-4.IX.1:10)…
コースは「準備が整った状態とは、熟達そのものではない (M-4.IX.1:10)」と言っています。ならば自分の居るところは、その準備に近いところでさえない、ということになるでしょう。だから赦しを極める事など忘れてください。自分が赦しに熟達する準備すら出来ていない理由は、自分が赦したくないと思ってる人々が何人かいるからです。自分が決して快適とは思えない状況がいくつかあるからです。自分が手放せない過去の虐待の記憶がいくらか残っているからです。

And honesty, the honesty that we are asked to give to Jesus,…
そして私たちがイエスに差し出すよう求められているのは「正直さ」です。その正直さとは「私がこれを作り上げているけど、手放す気はありません」と言うものです。しかし、少なくとも自分がこれを作り上げているという”事実”を知っていることは、ゆくゆくそれを手放していくための重要な「はじめの一歩」になります。
このコースが非常に穏やかである理由は、自分に準備が出来ていないことを行うよう求められている訳ではないからです。たとえその教えが非常に権威ある響きをもち、その教えに妥協の余地が一切ないとしても、これらの教えの”適用”にあたっては、非常に穏やかなものなのです。

We are simply asked to be open and honest and say I do not want…
私たちに求められているのは単に、心を開いて正直になり「こんな事(コースの赦し)はやりたくない」と言うことです。ヘレンがコースを筆記しはじめた初期の数週間のころ、ヘレンとビルが自分たちのしている事をやっと飲み込み始めたとき、彼女はイエスにこう言いました。「ビルはこのコースは好きじゃないし、私も好きとは言えません。」
私がよく申し上げるように、わずかな自我にでもしがみついている限り、このコースを好きになれる人なんているはずがありません。なぜなら、このコースはあなたの思考体系全体を取り壊してしまうからです。ですが、コースはそれを穏やかに行います。それを優しく行います。それを柔らかに行います。それを忍耐強く行います。しかし、厳然と行います。あなたがコースを続けると、自我としてのあなたは終焉するのです。

*****

ワプニック博士はゲイリー達に比べると言葉遣いがアカデミックすぎて「なんか難しい…」と思われがちかも知れないけど、その意味するところだけを冷静に吟味すると、じつは博士こそACIMのハードルをめちゃくちゃ下げてくれてる超〜やさしい教師だと思うのです。今回この話が自分の心に残ったのも、「これなら私でも出来る」シリーズのひとつだと感じたからです。

かつてのトベがそうでしたけど、うぼあ〜!うっかり怒り大爆発で半径3kmを不毛の地にしちまった〜!! みたいな大失敗ぶっこいて、ああ〜自分は学習者失格だ。。。もうコースに顔向け出来ないから全部やめよう。。。って感じでコースアウトする寸前の、まさに心折れそうな時に、

「ダイジョーブ!まだ赦す準備なんか出来てなくても全然いいんだよ。ただ自我を選択してるって事に気づくだけでいいんだよ。そんなの学習者失格じゃないどころか、それこそが大きな一歩なんだよ。よく赦したくない自分に気づいたね、ガンバ!」

って誰かに耳元で励まされたら、コース続けてみようかな…って踏ん張れたんじゃないかと、今更ながら思うんですよね。(そうすれば6年も無駄にしなくて済んだのになぁ)

博士にはそういう、どんな落ちこぼれも決して見捨てない慈悲深さがあって、私はそこに惹かれているんじゃないかと思っています。どんなに高尚で実践が難しいことであっても、必ずサルでも出来るレベルにまで噛み砕いて説明してくれた上で、「ほら、これならいますぐ出来るでしょう?あとは反復練習あるのみだから、無理なく続けていこうね」と言って肩を押してくれる印象ですね。。。

※余談ですが、CDのタイトル「天使たちとともに見る」というのはレッスン303から来ている言葉です。ちなみにコース内で”angel”が出てくるのはたった11箇所なので、ちょっと珍しい表現ですが、天使というときは聖霊の同義語として使われてるみたいです。

出典: Watching with Angels – Part 2 of 2 (FACIM)

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