ゲイリー達のオンライン講座(13) 前編
3/12。
なんと今回のオンライン講座はゲイリーが体調不良でお休み。シンディ一人で2時間ずっと頑張ってました。ちょっと興味深い話が最後まで続いたので、久々に身を乗り出して視聴しちゃったかも。
講座の本編
3月のテーマは「誤りの訂正」The Correction of Error – From ACIM Chapter 9, Section 3 です。以下、シンディのお話をピックアップしてみます。
[シンディ]
(0:13) 世界というのは「内的状況の外的映像」です。世界に何が見えていようとも、それはまず最初に心の中にあった想念であり、それが外界に投影されたものです。そうやって私達は自分の見たいものを見て、世界にみえるものが真実だと思っています。私達が動揺するのも腹が立つのも、すべて世界のほうに原因があるようにみえます。
(0:18) 「自我にとっては、誤りを指摘して「訂正する」ことは親切なことであり、正しく、良いことである…(T-9.III.2)」とあります。しかし、誤りや訂正とは何でしょう?誤りというのは自我そのものであり、訂正というのは自我の放棄を意味しています。決して、他の人の間違いを指摘して訂正させることではありません。本当の訂正とは、むしろそのような考えを放棄することにあるのです。
(0:29) Jは闇を否定するようにとは言ってません。そうではなく、Jと共に闇を見るように言っています。自分がリアルにしてしまったものが何なのかを見なければ、それを越えて先に進むことは出来ないからです。しかし同時に、闇を見るとき、そのことを裁いてしまうのはいけません。
(0:31) 例えば学校の先生が生徒の誤った解答を訂正するのは普通のことですし、それは適切な対応だといえます。Jが言っているのはそういった訂正のことではなく、裁きや非難や攻撃の気持ちから他者を訂正することについて言っているのです。(中略) ときには他者に介入しなければならないこともあります。誰かが酔っ払っているのに車を運転しようとしていたら、その車の鍵を取り上げるのは適切なことですし、そのような訂正は愛ある行為だと言えるでしょう。
(0:33) あなたの振る舞いがあなたなのではありません。行動上は誰もが間違えたりしますが、コースが誤りというとき、それはあなたの「考え」 — 不満や、非難や、裁いたりすること — について言ってるのです。それらは単に訂正を求める呼び声であり、罰するためのものではありません。
(0:48) あなたの不満のひとつを、これくらい(両手)の大きさの石に置き換えて想像してみてください。その石に、不満のもとになっている人の名前を書きます。すると、10個とか15個とかの名前入りの石ができるかも知れません。その石全部の重さを考えると、自分が毎日これだけたくさんの石を担ぎながら過ごしてきたということに気づきませんか?不満というのは、まさにそうやってあなたを重苦しく疲弊させてしまいます。それが「疲れ」というものの正体です。
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ちょっと長くなりそうなので、ここで一旦切ります。
最後の「不満を石に例える話」はなかなか反響が大きかったようで、関連する質問が出されたりしてました。それ以外にも興味深いQ&Aがあったので、次のエントリに書こうと思います。
さて今回はじめてゲイリーがお休みしててビックリしましたが、べつに病気で動けないというほどではなく、ただ「ゲイリーはベストな状態ではないから」という説明でした。そうか無理しないってこういう事かー。
(そういや自分は「このくらいへーきへーき…ゲフッ」とか言って、元気なフリしまくってたなぁ。。。などと我が身を振り返るきっかけになりました ^^;)
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