ACIMタッチアンドゴー

奇跡講座に復帰してからのあれこれ
20180401

一歩退いて自我を見つめる

ACIMに出会う前にお気に入りだった、エックハルト・トールの「ニュー・アース」という本があります。この本は自我(エゴ)の処し方について詳しいのですが、その中で心に残っていた話のひとつが、哲学者たちの言葉から紐解く自我の気づきの話でした。

当時は、そんなに重要な話だとは思っていなかったのですが、ワプニック博士の教えに触れるにつれ、もしかしてあの箇所は思ったより重要なことを言っていたのかも。。。という心境になってきたので、その一節をちょっと抜粋します。:

ニュー・アース (エックハルト・トール) p64
近代哲学の祖とみなされている十七世紀の哲学者デカルトは、この第一義的な誤りを(第一義的な真実と考えて)「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な言葉で表現した。これは「自分が絶対的な確実性をもって知りうることがあるだろうか?」という問いにデカルトが出した答えだった。彼は自分がつねに考えているという事実は疑いようがないと考え、思考と存在を同一視した。つまりアイデンティティ–私は在る–を思考と同一化したのである。彼は究極の真実を発見する代わりにエゴの根源を発見したのだが、自分ではそれに気づいていなかった。
別の著名な哲学者が先の言葉にはデカルトが–同時に他の誰もが–見過ごしていた部分があると気づくまでに、それから三百年近くを要した。その哲学者はジャン・ポール・サルトルである。彼はデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味しているうちに、ふいに、彼自身の言葉によれば「『われ在り』と言っている意識は、考えている意識とは別だ」ということに気づいた。これはいったいどういう意味か?自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。その別の次元の意識が「われ在り」と言う。あなたの中に思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢をみているのに気づかない夢中歩行者のようなものだ。夢を見ている人が夢のなかのすべてのイメージに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。多くの人々はいまもそんな夢中歩行者のように生き、古い機能不全の心の癖に囚われ、同じ悪夢のような現実をいつまでも再創造し続けている。しかし自分が夢を見ていると気づけば、夢のなかで目覚める。別の次元の意識が入り込む。
サルトルの洞察は深かったが、しかし彼は依然として自分を思考と同一化していたために、自分の発見の真の意味に、つまり新しい次元の意識が生まれたことに気づかなかった。
(※下線はトベによる)

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私は哲学とかは興味なかったんですけど、この一節にはなぜか説得力がありました。しかも、「考えている自分に気づくだけ」というかなり簡単な手段で、自我ではない意識にいつでもシフトできるという話だったので。その一方で、「うーん、でもこれってなんか簡単すぎるよね。自分の考えを観察するだけで幸せになれるわけないじゃん」って思ってしまったのでした。

ところが最近、赦しの実践の手引きとして、ワプニック博士のRules for Decisionを読むようになって、驚いたことがあります。ほぼ締めくくりにあたる箇所に、まさかのエックハルト本と同じことが書いてあるのです。
ちょっとそこだけ適当に訳したので書きます:

You are not the ego. You chose the ego… (Part 13)
あなたは自我なのではありません。あなたが自我を選んだのです。そしてあなたの心の中には、私たちが”決断の主体”と呼んでいる部分があり、それが自我を選択するのです。そして、それが自我を選択したなら、いま別の選択をすることもできるはずです。だからこのことがとても重要なのです。イエスが「あなたは自分ひとりで決断するのではない(T-30 I.14.7)」というとき、その「あなた」というのはまさに”決断の主体”のことを指しています。それが神の子 — つまり選択する者 — であり、だからこそ心の中に途方も無いパワーをもっている存在です。
ということは、あなた自身が少しずつ自我から距離をおいていけばよいのです。自我を見つめることが赦しにとって必須であるのは、このためです。実際、それこそが赦しです。もしあなたが自分の自我を見つめるなら、その自我を見つめているあなたとは誰でしょうか?もちろん、自我ではあり得ません!繰り返しますが、これは非常に厳密に構成された論理的なコースです。たとえあなたがコースに賛成できなくても、好きになれなくても、そのロジックは揺らぐことなく差し出されています。もしあなたが自我を見つめるなら、あなたは自我ではあり得ないのです。そのあなたというのは、あなたが見つめている自我とは別のものでなければならないからです。
(※下線はトベによる)

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これを見た時、昔エックハルト本で軽く考えていた箇所(下線部分)が、実は赦しの実践における要の部分だったと知って、ちょっと衝撃でした。

たとえば誰かに嫌なこと言われて腹が立ったとき「あ、私また怒ってるな…」と一歩引いてその動揺を観察することができたら、そのときの私(観察者)は自我ではないということですよね。自我と聖霊はどちらか一方しか選べないのだから、自我と同一化していない時というのは、聖霊が傍らにいる状態なのだと思います。自我に気づくことが赦しの第一歩だと言われるのは、このためなんでしょうね。

When you begin to separate out from it, … (Part 13)
あなたが自我から離れはじめるにつれ、自我はその力を失いはじめます。そしてあなたが自我から離れれば離れるほど、自我の力はどんどん衰えていき、やがて最終的には自我から完全に離れることになります。それはつまり、あなたが聖霊を選択したということです。なぜなら、自我と聖霊どちらか一方しか選べないからです。あなたが自我に投資するときは、聖霊から力を奪っています; あなたが聖霊に投資するときは、自我から力を奪っています。そして自我の力がすべて尽きたとき、自我は本来の虚無へと消え去っていくのです。

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初めてエックハルト本を読んだとき、別に自我を見つめたって幸せになれるわけじゃないでしょと思って真剣に受け取らなかったけど。。。実はその小さな努力を地道に続けていくことは、自我を訂正する赦しの土台であり、奇跡を通じて癒される道と重なっていたんですね。

※追記:「赦しのカリキュラム」p80にも同様の解説が載っています。併せてどうぞ。

出典: ニュー・アース (サンマーク出版) / Rules for Decision (FACIM)

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